その時見たものは、呆然と立ち尽くす少女。
いつも意志の強さを湛える双眸は、驚愕に大きく見開かれていて。
――ああ、そんな顔を、しないで。
本当に、ごめん……ね……
暗夜
綾人はソファーに深く身を沈め、天を仰ぐようにして目を閉じていた。
全身の消えないだるさは、今日の状況を鑑みれば、まだしも軽く済んでいる部類に入るだろう。これならば、翌日には普段どおりに振る舞うことはできそうだ。多少、自己暗示を必要とするだろうとしても。
もしかしたら実家に連絡が行ったのかもしれないが、自分のところへ電話がないということは、とりあえずその件については保留しておくに越したことはない。むやみに藪をつつく真似は本意ではなかった。
気懸かりなのは、そのことよりも――
――ピンポーン…
思考を遮る、軽やかな電子音のチャイムに、綾人はふっと目を開いた。
鳴らした相手は九割がた予測がついた。残りの一割であったなら、今はどんな顔をしていいのか正直判らないが。
その場合、インターホン越しでもおそらくどう受け答えするべきか困るだけだろうし、それだけで済ませられるとも思えないし、それなら直接会っても大差ない。瞬時にその結論を下して、綾人は一度大きく息を吐いてから立ち上がった。一瞬足元が頼りない感覚はしたが、ふらつくほどではなかった。
玄関へと移動し、ドアのロックを解除して押し開く。
「はい……あぁ、若月先生」
小さなポリ袋をぶら下げ、扉の外に立っていたのは、このマンションの住人であり、綾人を始めとして住人の複数が通うセント・リーフ・スクールの保健医を勤める若月龍太郎だった。予測の九割を占めた相手だ。内心、安堵をおぼえる。
「そのまま黙って寝かせておいてやるべきかと思ったんだが……どうしても気になってな。体調はもう平気なのか――って、その顔色を見りゃ、聞くまでもねえな」
「はは……僕ならもう大丈夫ですよ」
「神城、おまえな、その血の気のない顔で、本気で言ってるんだとしたら、尊敬に値するぞ」
胡乱そうに眉をしかめてみせる若月に、苦笑をブレンドした笑みを向ける。うそぶくつもりはなく、正直な感想と同時に。
「いい加減、慣れてますから。わりと鈍感なんです」
綾人は立ち位置を変え、室内へ目をやった。
「立ち話も何ですから、中へどうぞ。……お話ししたいことも、ありますし」
「んじゃ、少しだけ邪魔させてもらうかな」
固辞することはなく、若月は促されるままドアをくぐる。綾人は歩き出しながら訊ねた。
「紅茶くらいしか出せませんが、それでいいですか?」
「いや、そんなもん必要ねぇよ。当人の部屋といっても、青い顔してふらふら歩かれるとこっちの心臓に悪いからそのまま座っとけ」
本気で嫌そうな顔をしてみせる若月を振り返り、綾人はちらりと笑った。
「そうですか? じゃあ、何のおもてなしもしないままですが、こちらへ」
若月の来訪まで座っていた、リビングのソファーセットを手で示し、ゆっくりと向かう。若月が腰を下ろしてから、綾人は向かいの席に着いた。
「いらっしゃるんじゃないかと、思ってました。心配して来て下さってありがとうございます」
綾人は目礼した。
若月がこうしてこの場を訪れるのは、初めてではない。さすがに少々保健室で休ませてもらうくらいでは何もないが、今日のようにひどく具合を悪くした際には、予後を気遣い、また確認しにやってくることがある。綾人が学校生活と一人暮らしを送るにあたっては、抱える事情を把握した上で、平生の病状を定期的に記録し主治医への報告書をまとめる立場の者が必要条件で、その点では、通う学校の保健医であり同じマンションの住人でもある若月以上の適任者は存在しなかった。
「つっても、オレ様じゃ、来たところで何ができるってわけでもねえんだけどな。……ああ、これは差し入れだ。どうせ何も食ってないし、動く気にもならねえだろうと思って、軽そうなもんを適当に作ってきた。食欲はないだろうが、ちょっとくらいは後で食っとけよ」
若月は持参していたポリ袋をテーブルの上に置いた。商店街のロゴが入った袋の中には、料理を詰めたと思しきタッパーが重ねられている。
「わざわざ、すみません。お手数ばかりかけてしまって」
「んー? 上の階に住んでるどこぞの女子高生のダイエットメニューを監修するより、よっぽど簡単だから気にすんな」
人の悪い笑いをひらめかせる若月を見やって、調子を合わせるように綾人は微笑んだ。いささかの動揺が混入しなかったとは言い切れないが。
「ヒトミちゃん、ですか。ほんの半年あまりで、見違えるようにスリムになりましたよね、彼女。あれだけ、しかも健康的にダイエットできるっていうのはすごいな。……病的に痩せるのなら、結構得意なんですけど」
「おい、それ、いまいち冗談として笑えねえぞ」
「あんまり冗談のつもりでもないんですが。――ああ、彼女のことで、先生にお礼を言わなくてはと思ってたんです。今日は、僕のこと……彼女に実質何も告げずにいて下さって、ありがとうございました」
綾人は膝の上に置いた手を揃え、居住まいを正して頭を下げた。それをきちんと言う為に若月を招き入れたのだが、糸口をつかめずにいたところだったのだ。二重に感謝するべきだろう。
若月はふうっと息を吐いて、わしわしと前髪をかき回した。
「そういう約束だからな。ったく、盛大にぶっ倒れやがって。無理すんなって何回も言わせんじゃねえ。ま、大方、桜川が連れ回してたんだろうけどな」
「体調がよかったとは言いませんが、無理……してたつもりは、それほどなかったんですけど。それに、ヒトミちゃんのせいじゃありませんよ。せっかくの高校最後の文化祭だし、楽しめればいいなと思ってて……そうしたらちょうど彼女に会ったし、僕から誘ったんです。まさか、彼女が席を外している間に急に具合が悪くなるとは思いませんでしたし」
綾人はわずかに瞼を伏せた。
昼間の出来事を思い出す。確かに調子はよくなかった。脳貧血の前兆のように、血液が回りきっていない感じもしてはいたのだが、ヒトミの姿を見たら、一緒に行動したい気持ちの方が先にたっていた。もしかしたら、彼女の生命力溢れる明るさに、少しでもおこぼれが分け与えられないものかと願ってしまったからかもしれない。
最近、思いもよらない場所で遭遇したり、休日に誘ったり誘われたりと、他の女生徒よりも間近にいる機会が多いが、それは彼女の、生き生きとした態度によるものが大きい。今日も、顔を合わせたらそれだけで少し呼吸が楽になった気がして、その理由は判然としないながらもこれならば一通り見て回るまで付き合ってやれそうだと思ったのだが。
己の身中に巣くった病魔は、すぐに容赦なく牙を剥く。気を緩めた途端に、それを嘲弄するかのように手ひどいしっぺ返しを喰らわせてくるのだ。
突如全身から血の気が引く感覚に、まずい、と思ったのは、ヒトミが場を去った直後。ここで待ってて下さい、と彼女に念を押されてはいたが、意識が途絶えないうちにどこかなるべく目立たずに座り込める場所を探す方を優先せざるを得なかった。次いで、胸郭にこみ上げる嫌な熱さを知覚し――、どうやってたどり着いたのか、たどり着けたのか、途中経過は全く記憶にないまま、裏庭の昇降口にいた。
力を失って崩れかける膝と、口を押さえて咳き込むたびに、ごぼりと粘性に泡立ち指の間から伝い落ちる血液。
血を吐くほどの状態になったことはこれまでにも幾度か経験しているが、初めてではないからといって完全に淡々としていることもできなかった。日ごろどんなに――なるべく――普通の学生らしく過ごしているつもりでも、ごく近未来に二度と目覚めない眠りの予約席が待ち受けているのだと、改めて示されているようで。それはもう変革することの叶わない予定図なのだと問答無用で思い知らされるようで、諦めは恐怖という名の暗闇に呑み込まれて。
そして――霞んだ視界に映ったのは、待っているはずの場所から置いてきてしまった少女。自分がいないから捜してくれたのだろうが、呆然として立つその姿に罪悪感をおぼえた。混乱のあまり泣きそうな顔は、させたくない最たるものであったのに。
「ほんとは……彼女には、全く何も知らないままでいてほしかったんですけど、ね。よりにもよって、一番無様なところを見られてしまったな」
自嘲の翳りをたゆたわせ、綾人は息をついた。
これで、多少なりとも彼女に強い印象を与えてしまった。最期を迎える瞬間まで、一時期同じマンションに住んでいた、親しく言葉を交わしたこともある先輩……で、ただそれだけでいたかったのに。そうすれば、いずれ彼女の中から自分という存在の記憶は風化し消えていくはずで……いつか名前も忘れてしまうだろう。かつてそこにいた、事実さえも。それでよかったのに。そうあるべきだったのに。
四割方の独語の響きを、若月は取り沙汰せずに、ただ舌打ちしたそうに口元を歪めていた。
何故だ、などと、若月がばかげた問いをしないのは判っていた。彼にはそんなことはお見通しなのだろうから。そして、綾人が日頃他者相手にとるその態度に対して、若月個人の見解はあるのだろうが、それを賢しらに振りかざし説教することはない。どれほど傍目からはいい加減に見えても、不良保健医と称されていようとも、自らの正義と他人の正義が必ずしも一致するものではないという真実を正確にわきまえている人間だ。だからこそ、こんな『苦虫を噛み潰したような』という使い古された表現で表せそうな顔をするだけで、何も訊かない。そういう、ひとだ。
「ヒトミちゃん……何か、言ってましたか? 僕が、気を失ってしまっていた間――。保健室に着いたらいきなり気が抜けたから、覚えてなくて」
意識を取り戻した時には、既に保健室のベッドの上だった。横には、心配そうな不安そうな、緊張して見つめる少女。先だってどれだけ驚かせてしまったのかは、想像するに余りある。普通は、そんな事態に遭遇することなどありえないのだから。
「んあ? おまえが倒れた理由で最初に詰め寄ってきた以外は、特には何も話してねぇよ。とにかく慌てて興奮して、ってくらいで。まあ誰だってあんなもんだろ。怪我人が出たってんで、オレ様もすぐに保健室を離れたしな」
「そうですか……それなら、いいんです」
綾人は再び目を伏せた。……今ならまだ、修正がきく。何事もなかったかのように、明日彼女に――笑いかけてやればいい。和やかに、優しく。当たり前のことを、当たり前に喋って――そうすればいい。後はそれを繰り返して……、少しだけ時間はかかるかもしれないが、そのくらいの時間は、まだ残されている……だろう。おそらくは。
他人は、自分のことをよく「優しい」と言う。誰にでも好意的で、誰にでも公平で、誰にでも人当たりよくて、あくまで穏やかな物腰を絶やさずに――。
否、それのどこが優しいのか。お笑い種だ。誰に対しても優しい? そんな、平等な振る舞いが可能なのは、誰のことも特別ではないからだ。誰のことも好いてはいないからだ。家族に対しては、心配ばかりかけてしまう心苦しさが伴うが、いずれ近いうちに最大の親不孝を実行することになるだろう身には、何の術もない。
見かけだけ取り繕って、周囲に馴染んでいるように見せかけて、その実、誰のことも見ず誰の印象にも残らないように注意を払って。ただの傲岸不遜、陰で嗤っているも同じ態度をとり続けるそれを優しいだなどと。深入りは悪徳で、世界は愚者の集まりだ。
あまりにも愚かで、……なればこそ。
「……っ」
どくん、と、心臓が激しく脈打つのを自覚する。引きずられて、意思によらず呼吸が不規則に乱れた。
綾人はぎゅっと目をつぶり、シャツを掴むようにして胸元を押さえた。急激に酸素が失われたかのごとき息苦しさに喉がひくつく。
いけない、気を静めなくては――。
巻き込まれるがままの一方で、押し留めようと警鐘を鳴らす自分がいる。
感情が昂ると、すぐにこうだ。思いをめぐらせることすらも、己の自由にはならない。病はどれだけのものを奪っていくのだろうか。ひどく惨めで、情けなくて、もう涙さえも出なくて。
ああ、駄目だ、息を吸いたいのに、ひきつけたように喉が鳴るだけで、まるで成功しない。
「おい! 神城!!」
意識が闇に呑まれようとする寸前、強い声によって現実に引き戻された。
薄く目を開けると、ソファーから腰を浮かせ、腕を伸ばそうとする若月の姿が見えた。
「……、…き、先せ……」
「あせらなくていい、ゆっくりと息を吐いてみろ。……落ち着け」
「す……み、ません――」
かすれて、声にならない息で、どうにかそう口にして、綾人はふっと力を抜いた。途切れた時と同じく突然、求めていた空気が肺に流れ込んでくる。
頼りないながらも綾人が呼吸をととのえたところで、若月にようやく安堵の気配が宿るのが感じられた。
「大丈夫か? ……悪い。様子を見るだけのつもりが、負担かけちまってんな」
「もう、平気……ですから」
波は、襲うのと同様、引くのも早かった。
一つ咳き込んでから、綾人はなるべく通常の調子を構成する。笑みを浮かべることには何とか成功した。却って若月の眉間に皺を作らせる結果にしかならなかったが。
「そういうのが、無理してるっつってんだ。おまえ、もう寝ろ。今すぐ寝ろ。反論は許さん。オレ様じゃ、ほんとに何もできねぇんだからこれ以上手間かけさせんなよ」
反論どころか一言も返せずに、苦笑とも失笑ともつかない曖昧な面持ちをよぎらせる綾人を、若月はじろりと一瞥した。
「歩けなきゃ、寝室まで連れてくぞ。ヤローに肩を貸すなんざ主義に反するが、特例にしといてやるからよ。それとも担いでいかれたいか? どっちか選ばせてやる、さあ選べ」
「……どちらも、遠慮しておきますよ。自分で歩けます」
綾人は控えめに辞退の言を述べ、ゆっくりとした所作で立つ。「ほれ見たことか」と言われない為にいくばくかの努力を要したが、よろけてソファーに逆戻りする事態に陥らずには済んだ。
「ちっ、可愛げがねえな」
「先生に可愛いと思われても、嬉しくありませんし」
「そりゃこっちもだ。……そんじゃ、オレ様はもう戻る。メシは冷蔵庫に入れとくから、朝にでも落ち着いてからでいいから食え」
「わかりました……重ね重ね、申し訳ありません」
リビングと続く寝室の前まで歩を進め、そこで思い当たって綾人は声を投げた。
「あぁ、玄関の鍵は、そのままにしておいて下さい。後で、締めますから」
「おう、ちゃんと休めよ」
冷気が逃げないようにか、素早く冷蔵庫の扉を開け閉めして、若月は玄関へと向かいながら、振り向かずにひらひらと手だけ振ってみせた。
「はい、じゃあ、おやすみなさい。ありがとうございました」
綾人は、寝室のドアに寄りかかって来訪者を見送った。若月が外に姿を消してから、その場に座り込みたい衝動を抑え、寝室に足を踏み入れる。
わずかな歩数が何倍にも感じられる中、どうにかベッドまで行き着いて、どさりと身体を投げ出す。電灯はつけなかった。半年以上暮らした部屋だ、明かりがなくとも支障はない。
静寂の中の、時計が秒を刻む音。目が慣れるに従って、窓から漏れる、街灯とささやかな街明かりが、完全な暗闇から部屋をほのかに浮かび上がらせているのが見えてくる。
繰り返しよぎるのは、気懸かりなのは、あの瞬間の、混乱に満ちた少女の顔。
彼女は今、何をしているのだろうか。
ここより一階上で兄と同居する少女に思いを馳せる。
テレビでも視ているのか、勉強に勤しんでいるのか、着実に成果をみせるダイエットのプログラムをこなしているのか。あるいは――
――今日あったことを、思い浮かべているのか。
あんなにも、驚かせてしまった。彼女には関わりのないことで、煩わせてしまった。悔やんでも悔やみきれず、謝ってもきっと足りない。
そうだ、彼女には全く関係ない。彼女が気に病むことではないのだ。こんな、明日をも知れない病気に侵されている人間のことなど、脳裏から消し去ってしまえばいい。何も知らなくていい。知ろうとする必要もない。
事実を知れば、あの、一心に太陽に向かって伸びる向日葵のような笑顔を曇らせてしまう。翳らせてはいけない。彼女はいつでも、光の中にあるべき存在なのだから。それが、正しいのだから。
やはり明日は、何もなかった顔をして会うべきだ。そうやって、自分は生きてきた。病名と、治療法が存在しないことを知らされて以来、ずっと。誰の記憶にも長く残らないように、印象を留めないように、当たり障りなく平等な態度で。他の誰も、自分は恨まない。恨むのは、己自身だけで充分にして手一杯だ。そして、誰のことも憎まず嫌わない代わりに、誰のことも飛び抜けた好意を持って気にかけない。それでいいはずだ。
近い将来この世からいなくなる人間のことなど、覚えていたところで何も益はない。あえて傷痕を残すような真似を、誰もする必要などないのだ。
――いつか消えてしまうんだとしても、その信じたものに意味がないってことは、ないですよね?
不意に蘇る真摯な声。澄み切って通る、一筋の光。
――たとえ消えてしまうのだとしても、そこから生まれた想いやぬくもりは消えたりしないし、それだけで信じた意味があるんじゃないかって。そうしたら、きっと消えた後でもそれが大切な支えになると思うんです。
あれは、夏の旅行の時だったか。昼間歩き回って調子を崩したせいで気弱になっていたのか、話すつもりではなかったことまで話してしまった。どうせ、命尽きてしまえば全て終わってしまうものを、なのに彼女は真剣に捉え、上辺だけではない言葉を返してきた。
その強さがうらやましくて、眩しくて、それゆえに――己とは相容れないものを知った。自分には決して、心から信じることは叶わない、それは考え方で。
ああ、やっぱり、彼女の輝きを翳らせてはいけない。あの、まっすぐな姿勢をたわめてはいけない。希望に溢れた、疑うことなく前を見据える眼差しを。
……考えれば考えるほど、思考はとりとめがなくなってゆく。体調不良の影響は、乱れそうになる呼吸だけではなく、こんなところにも現れているのかもしれない。
そう、きっとそのせいだ。平等に接しなければという理由を持ち出して、それを迂闊なことに逸脱させてしまった少女のことばかり思うのも。知らなくていいと言いながら、何度もそれを繰り返して思い込ませて、まるで本心では自分のことを知ってほしいみたいな逆説を喚んでいるのも。
そんなことなど、ありえないのに。あってはいけないのに。こんな、誰にも何も遺してやれない人間には傲慢に過ぎる想いを抱くことは。
「物の道理の判らない子供じゃ、あるまいし……、ほんとに……僕は、何を夢物語みたいな、ことを――」
低くひとりごちて、綾人はくつくつと笑い声をたてた。はじめは喉の奥の含み笑いに近かったそれは、次第に自己の制御を放れ、高く低く揺れる、不安定な笑いへと変化を遂げてゆく。
殆ど闇に包まれた薄明かりの中、綾人は両手で顔を覆って、ずっと笑い続けていた。まるで、嗚咽のように。
――長い夜は、未だ、明ける時を知らない。