今までは、お兄ちゃんとパパにあげるチョコしか、考えたことがなかった。それよりもむしろ、他人にあげるチョコがあるなら鼻血が出るほど自分で食べたい、なんていう状態で。
 去年、初めて『家族以外の、大切な人』に渡す為のチョコを手にした。そのお返しは、抱えきれないほどの真紅のバラの花束と、優しい笑顔。情熱的に向けられる想い。



  そうして、私たちは始まりを迎えた。




水のように、雪のように






「今年は……、チョコはちょっとまずいよね」
 ヒトミはひとりごちて、ベッドの上でビーズクッションを抱え込んだ。ぽふ、とクッションに顎を載せる。
 机の上には、父と兄に宛てる――大きく外にも中にも『義理』と書いた――チョコレートの小箱が既に置かれている。そしてもう一つ、中身はもちろんのこと、ラッピングの手の込み方自体が全く違うことが一目瞭然の箱も、あるにはあるのだけれど。
「神城先輩は、笑って受け取ってくれるかもしれないけど……病院にチョコなんて、持っていくわけにはいかないし。うん、やっぱり明日はプレゼントだけにしておこう」
 このチョコは、取っておいて、綾人が退院したら二人で食べればいい。それはそれで、楽しい気がする。
 そう決めて、仰向けに寝転がる。ぎゅっとクッションを抱き締めて、ヒトミは、今はこのマンションの部屋を空けている存在のことを思った。
 昨年末から体調が思わしくなかった綾人がひどい発作を起こして緊急入院したのは、年が明けた途端のことだ。それから既に一ヶ月半近くになる。
 見舞いに行くたび、綾人は笑顔で迎えてくれるけれど。出会った初めの頃のように当たり障りない態度で隠し事をされることは、もうないけれど。本当はつらいだろうのに、無理して笑ってくれるその姿が、却ってヒトミには心苦しい。
 入院した最初のうちは、一日中何がしかの点滴チューブにつながれている状態で。そんなさなかですら、彼は「みっともない姿を見せちゃって、心配させてごめんね」と謝るのだ。
「僕は、大丈夫」――そんな言葉を、もう何度聞いただろう。もしかしたら、それはヒトミを安心させようとするのと同時に、自らに言い聞かせる言葉でもあったかもしれないけれども。
 苦しい息の下から微笑まれると、胸が痛くて泣きそうになる。
 本当に彼は優しくて。あまりに優しすぎて、哀しい人だ。
 自分は、真実、彼の支えになれているだろうか。彼に欲されるだけの資格がある人間でいられるだろうか。
 いつだって自信なんかなくて……それでも、傍にいたいと願ったから。互いの手を取り、共に歩む道行きを、選んだから。
 少しでも、望む姿に近づくことができればいいと思う。果てに待つものが何であっても、それは、あるべき結果なのだから。
「先輩、早く退院できるといいなあ……」
 呟いて、ヒトミは目を閉じた。




 芽吹きの兆候を見せはじめた、枯れた木立ちの中を、ヒトミは早足で歩いていた。
 もう目を閉じていてもたどり着けそうなほど通った、病院への道のり。敷地の中を横切り、正面エントランスへ向かう。
 院内に入ると、暖房された空気と、そこに漂う消毒薬の匂いに取り巻かれた。そして、外来患者や見舞い客、取次ぎの為だろうか往来する看護師たちが生み出す、声や音自体は大きくないのに街の雑踏の中の喧騒のような気配。
 待合ロビーの脇にあるエレベーターのボタンを押して乗り込み、五階を選ぶ。扉がスライドして閉じ、再び開くと、そこはもう、別の世界だった。
 ――空間自体がひっそりと息をひそめているような、重く静かな。外界から切り離された、閉じた世界。
 ナースセンターの前を通る時、顔見知りになった看護師の姿を見つけ、ヒトミは軽く会釈した。相手も気づいたらしく、書き物を中断し、小さく手を上げてくれる。
 ゆっくりと廊下を進み、ヒトミは一つの部屋のドアの前で足を止めた。
『508 神城綾人』
 ドアの横のプレートにはそう表示されている。
 ヒトミは深呼吸してから、ドアを叩いた。
 コンコン…コン。
 続けて二度、それから一度、ノックする。それが、決めた合図だった。
 待つほどのこともなく、中から穏やかな声が投げかけられた。
「はい、どうぞ」
 それを聞いて、ヒトミはそろそろとドアを開けた。
「いらっしゃい、ヒトミちゃん。待ってたよ」
 袖を通さずに肩にカーディガンを羽織った綾人が、ベッドに身を起こし、入り口を見てふわりと笑った。それまで読んでいたのだろう、ハードカバーの書籍を手にしている。
「こんにちは。今、お邪魔じゃありませんでしたか?」
 ベッド際まで歩み寄りながら、ヒトミは問いかけた。これから休むところであるとか、何らかの予定が入っているなら、控えていようと思ったのだが、綾人はにっこりとしてみせた。
「うん、検査は午前中に終わってるし、大丈夫だよ。他には特に何かすることもないしね」
「それならよかったです」
 ヒトミは傍らに置かれた椅子に腰を下ろして、改めて綾人を見た。どうやら今日は調子はいいらしい。いつも青白く透ける肌は、幾分血色を取り戻しているし、表情にもゆとりが感じとれる。そのことにまず安堵して、ヒトミは膝の上に載せた手提げの紙バッグから、リボンを掛けた包みを取り出した。
「そうだ、プレゼントを持ってきたんですよ。今日、バレンタインでしょう? 本当はチョコも……用意したんですけど、病院に持ってくるのはどうかと思って」
「気を遣ってくれたんだ? 多分そうじゃないかって思ってたんだけど、やっぱりちょっと残念だな、ヒトミちゃんからのチョコなら平気なのに。でも、嬉しいよ。これ、開けてもいい?」
「はい。気に入ってもらえるかどうか判りませんけど……」
 包装を解いていく綾人を、幾分自信を持てずにヒトミは窺った。
 雑貨屋で見かけて惹かれたそれは、薄蒼く透明なガラスの中に、静かに降る雪を描き出した小さな置き物だった。澄んだ淡い蒼は、何だか綾人を思わせて。音もなく降り積もり白くきらめく雪のモチーフは、ひそやかに、けれど途切れることなく互いに重ねてゆくこれからの時間を表すようで。
「ただ、私は、素敵だなって思ったから。あの、こういうの程度だったら、インテリアを損なうこともない……ですよね?」
「……綺麗だね」
 箱を開けて軽く目を見張り、見入っていた綾人が、溜め息に近く呟く。
「すごく嬉しいよ、ありがとう」
 綾人は大切そうに箱から置き物を取り出し、掌の上に載せて更に見つめてから、ベッドサイドにことりと置いた。窓から差し込む、まだ角度の低い日差しが、透き通った影を白い壁に投影する。
「これを見ていたら、君が帰ってからも少しは気持ちが癒される気がする。……無論、こうして今君がいてくれることの方がうんと嬉しいんだけど」
 そっと腕を伸ばし、綾人はヒトミの頬に触れた。ガラスを手にしていたからだろうか、少しひんやりとした掌の感触に、ヒトミはわずかに睫毛を伏せた。
「もっとずっと、いつでも傍にいられたらいいのに。……ほんと、不甲斐なくてごめんね、ヒトミちゃん」
「――そんなこと。先輩はいつも余分に謝りすぎです」
 ヒトミは目線を上げて、少しだけ諌めるような顔をしてみせた。本気で怒ったわけではない。怒ることなど、できはしない。ただ、綾人がこれ以上自らを責めないでいてほしくて。
「そうかな……」
 苦笑いに近い表情をまぜ込んで、綾人が、触れていたヒトミの頬をさらりと一度撫でてから手を離す。
「僕としては、これでも収支が足りていない気がするんだけど。君からもらう、たくさんの元気や光や暖かさ――そういったものに、どれだけ返せているのかなって考えるとね。それなのにこの上借金までする気でいるんだから、我ながらたちが悪いと思うよ」
 綾人の言葉は、時々すぐに意味を汲み取れないことがある。借金とは何だろうとヒトミが問いかけた時、
「ねえ、ヒトミちゃん。一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
 小さく首を傾げるような仕草で、綾人はヒトミを見た。
「何ですか……?」
「ちょっとそのカーテン、閉めてくれる?」
 ベッドの半分ほどを取り巻く形でレールが造られた薄い布のカーテンを綾人は示す。
「え? はい」
 大部屋であれば、各患者のプライバシーを形ばかりでも保護する用を成すそれだが、ここは個室だ。特に何か遮る必要性の高いものがあるようにも思えない。それでも請われるままに、ヒトミは立ち上がり、布を引いた。
「ありがとう。僕としては別にそのままでも一向にかまわないんだけど……ヒトミちゃんは嫌がるかと思って」
「嫌って……何が」
 首を捻りつつ、ヒトミは椅子に戻ると、発言者を見返した。綾人は、ベッドサイドの引き出しから何かを取り出すと、ヒトミに差し出した。
 その手にあったのは、駄菓子屋やコンビニでよく見かける、一口サイズのチョコレート。中にヌガーが入っているタイプは少々苦手なのだが、それではないようだ。
「君にあげるよ。食べて」
「はあ……、ありがとうございます」
 状況が掴めずに、ヒトミが受け取って曖昧に礼を言うと、念を押された。
「今ここで、ね?」
「じ……じゃあ、いただきます」
 ヒトミはおっかなびっくりで小さな包み紙を開き、中味をぽい、と口に放り込んだ。完全に噛み砕くより前に、
「……ぁ」
 ――綾人の秀麗な顔が、ぼやけるほどの至近距離にあった。
 抱え込むように頭を引き寄せられたのだと知覚したのは、唇が触れてから。
 次いで伝わるのは、そっと重ねられる熱さで。
「………」
 ヒトミは綾人のパジャマの襟をきゅっと握って、緩く瞼を閉じた。
 決して無理に唇を割られることはない。ヒトミの意に染まないことを、彼はしない。それは、ただ静かに互いの吐息を分け合うような――それだけを望む、やさしい口づけ。
 口の中のチョコレートが、熱を帯びた舌の上で、とろりととろける。弾む気持ちのような甘さと、よぎる切なさと同じほろ苦さと。
 自分の心臓の音が耳元で聞こえるほどに、激しく高鳴る。嬉しいのに悲しいみたいな微かな痛みは、きっと、触れた唇の熱さだけが現実を繋ぎ止めているような奇妙な不安からだ。
 それがどれくらいの時間だったのかは、判らない。やがて、綾人がゆっくりと顔を離した。
 はあ、と息をついて、ヒトミは恐る恐る目を開けた。映るのは、まっすぐな綾人の眼差し。その瞬間に、幻の中のようだった意識が、紛う事なき現実に根ざしたものに収束する。――ここに、たしかに自分たちは在るのだと。
「……ね? こういうの、君は恥ずかしいでしょう? 急に戸が開いて看護師さんでも入ってくるかもしれないしね」
 悪戯が成功した子供のような顔ではなく、驚くほど真摯に、綾人はヒトミを見る。
「え、あ……、はっ……はい」
 そこに至ってやっと、現状を認識してヒトミは手を引っ込め、口元を押さえた。綾人とのキスの経験は既にあっても、急激に湧き起こる気恥ずかしさに頬が紅潮するのを抑制しきれない。残っていたチョコを飲み込んで、咄嗟に顔を伏せてしまう。
 そんな様に、綾人の気配が穏やかに慈しむものに変化する。ヒトミを落ち着かせるように、その両頬に手を当てて包み込み、続いて髪を撫でて、綾人は腕を下ろした。
「ごめん。どうしても、今……君からのチョコが欲しくて。でも、さっきも言ったけど、君はきっと、用意してても気を遣って持ってこないんじゃないかなって気がしてたから。……それで、病院の売店で買ってきたんだ。検査から戻る時にね」
 身体の中に残る熱は冷めないまま、ヒトミは綾人を見返した。
「我慢するつもり……では、いたんだよ。でも、できなかった。ちょっとだけでもチョコを分けてもらったような気がして、僕は嬉しかったんだけど……ヒトミちゃんは、嫌だった? こうするの」
「い……嫌じゃ、ないです……。すごく、どきどきしましたけど」
 問われて、正直な答えを返す。否定的な返答などあるわけがないと知っているはずなのに、「よかった」と目を細める綾人が、実際にとても嬉しそうで、ヒトミは急いで付け加えた。。
「でもあの、本当のバレンタインチョコは、ちゃんと家にありますから。傷まないように気をつけてますから。退院したら……、一緒に食べましょうね?」
 願いを籠めて、ヒトミは微笑んだ。こんなに欲しがってくれるならチョコを持ってきてもよかったな、という思いと、持ってこなかったからこそ生まれた、熱っぽい時間の名残と、双方を抱いて。
「あ……。そのこと、なんだけど――」
 ヒトミの言葉に、綾人が口を開く。
「はい……?」
「実は、もしかしたら、来週中には退院できるかもしれない」
「本当ですか!?」
 声が跳ねるのが、自分でも判る。大きく目を見開いて見つめるヒトミに、綾人は首肯した。
「うん。今日の検査の数値がよければ……だけどね」
 自信はないのか、弱々しい微笑が、綾人に浮かぶ。
「結果次第では、まだ長引くことになるし……ぬか喜びさせたくないから、今言っていいものか、迷ったんだけど……」
「そんなの、全然かまいません!」
 勢いよく叫んで、ヒトミは誤解を招きかねない言葉だったことに気づき、慌てて補足を入れた。
「あっ、えっと、先輩の入院が延びることがじゃなくて。もしも、今回結果が良好でなかったとしても……そんなことあってほしくないなとは思うけど……退院できるかもっていう話が出るくらいには、随分よくなってきてるっていうことですよね? だったら私、それだけでも、ほんとに嬉しいですから」
 口にすると実感が広がって、自然と笑みが零れた。そのヒトミの様子を、綾人が驚きに近い表情で双眸に映していた。
「君は……本当に強いね」
 綾人の声は、強い感情の波を含んでいた。
「そんな風に、僕は考えもしなかった。こんな毎日がまだ当分続くんだろうかと……そんなこと、ばかり――」
 己を襲う波を扱いかねているかのように、困惑と躊躇の境界線を行き来する綾人の表情は、泣きそうにも見えて、ヒトミはそっと名前を呼んだ。
「神城先輩……」
「やっぱり、情けないな……僕は。油断するとすぐ、方向を見失う」
 綾人の独語は低く、自分が声に出していることさえ自覚はないのかもしれなかった。
 彼の内を去来するものの全てを、ヒトミには慮ることはできない。少しでも多く理解したいとは思うけれど、それ以上を望むのは傲慢だと知っている。
 自分にできるのは、ただ、迷いに揺れる手をとることだけで。そこから答えを選び取るのは、綾人自身。それで、いい。勝手な憶測は、労りの名を借りた、侮蔑になるから。
 ややあって、綾人は我に返った様子で目をしばたたくと、重い息を吐き出した。泣き笑いのように、ちらりと笑む。
「そうだね、ヒトミちゃんの言うとおりだね」
 それから、戸惑いぎみに綾人はヒトミに腕を差し伸べた。
「もう少しだけ……自信をもらっても、いいかな。君のことを、抱き締めたい。それだけでいいんだ、さっきみたいなことは、しないから」
「……確認されると却って恥ずかしいから、必要ないです」
 それだけを口にして、ヒトミはふわっと綾人に身を預けた。不自然な体勢ではあったが、そんなことは気にならなかった。
 しばらくして背に綾人の腕が回される。それは、壊れ物に触れるような遠慮がちなもので、そんなところにも綾人の感情の揺らぎが反映されているのを感じてヒトミはじっと目を閉じた。
 緩やかに伝わる体温。聞こえる心臓の音は、自分のものなのか相手のものなのか、もう区別がつかない。
 先ほどの熱さとは質を異にする、優しいぬくもり。包み込まれる安心感と、気の遠くなるような幸福感。それから、拭い去れないひとかけらの胸の痛み。
 ヒトミは自らも腕を伸ばしてぎゅっと抱きついた。まるで、自分の方が綾人を抱き締めているように。
「大丈夫――私は消えたりしませんよ? ここに、います」
 殆ど声ではなく、ヒトミは囁きかける。そうすると、今度こそ強く抱き寄せられた。寄る辺を求めるがごとく。
「うん……知ってる。ちゃんと、知ってるんだ……」
 耳元に響く声音に、ヒトミは綾人の胸に顔を押しつけた。
 ただ、こうして触れ合うだけで。高まる鼓動は、苦しいほどに嬉しくて切なくて。
 どこか夢の中のようにふわふわと頼りなく浮く気持ちと、同じだけの量を占める、いまの確かさと。
「ありがとう、ヒトミちゃん……。君のおかげで、僕はまだ立っていられる気がする。君がいる、から」
 静かに降る綾人の声は、澄みわたった水みたいだとふとヒトミは思った。――そう、それはまるで、蒼い夜に静かに積もる雪のような時間に染み込む、癒し融かし潤す、透明な水。自分もまた、彼にとってのそれになれるだろうか。
「先輩……あのね」
 しっかりと身を寄せたまま、ヒトミはゆっくりと自らが持つ真実を舌にのせた。
「……私だって、そうなんですよ」
 ――それ以上の言葉は、今ここに必要ない。
 願うのはただ、共に在ること。紡がれる刻の道程。
 互いの体温と、響き合う想いと。心地良い腕の中の暖かさに、ヒトミはそっと吐息する。
 甘くて苦いチョコレートの味が、再び蘇る気がした。




 そしてあの屋上の夜から一つ年を重ねて。
 始まりが再び訪れて。変わるものも変わらないものも、同じように支え合って。もしも叶わなくても、信じることだけはやめないで。
 私たちはまた、次の一つを見つめてゆく。



  ――水のように、雪のように。


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