願いはいつも、闇の彼方から姿を現す。



dusk






 緩やかに浮かび上がる意識。重くまとわりつく、まるで空間が半流動体化したような感覚の中、それでも次第にまどろみは覚醒へ変化してゆく。上方から誰かに手を引かれるように。
 ゆるゆると瞼を押し開けて、綾人は息を吐いた。
 呼気がちりちりと気道を灼くようで、その不快感が更なる息苦しさを生む。胸郭の厭な熱感が自己の状態を知らしめた。
 焦点を合わしきれずにぼんやりとした視界にひろがるのは、白い天井の中央。見飽きるほど見続けてきたそれは、無機質な冷たさを感じさせる。逃れられない、己を囲む檻のような世界――その現実を。
 通算、もう何度目になるのだろうか。もう慣れた――慣れるよりなかった――入院。部屋こそ前回と異なるけれど、いつも印象は変わらない。
 腕のだるさに、まだよく見えない瞳だけを動かすと、中味が半分ほどに減った輸液パックと、つなげられたチューブが目に入った。滴り落ちるペースを見ればあとどれくらいで終了するのかまで瞬時に把握できて、その事実に嗤いがこみ上げる。実際には唇を歪ませるだけにしかならなかったが。
 軋んで負担を示す全身の訴えを無視してわずかに身じろぎしかけて、綾人は点滴と反対側の手が何かに捕らえられているのに気づいた。拘束とは違う、むしろそこだけが温かくて柔らかな――。
「ヒトミちゃん……?」
 口に出したはずだったが、声にはならなかった。焼けつく胸の痛みに、息が詰まる。咳き込むことすらできずに、綾人はただ耐えて波が引くのを待った。
「っ、……」
 あまり使いものになっていないらしい呼吸器がどうにか本来の役目を思い出しかけたらしきところで、綾人は改めて横を見やった。
 全てが無彩色にぶれて感じられた部屋の中で、そこだけが鮮やかで、はっきりと見える。
 錯覚ではなかった。
 さらさらとした明るい髪色の少女が、綾人の手を、両手で包み込むようにして握っていた。上体はシーツにうつ伏せて、顔だけがやや横を向いている。幾分開かれた唇から、微かな寝息が洩れていた。
 見舞いにきて、そのうちに眠り込んでしまったのだろうと容易に想像がつく。自己の状態を鑑みて、病室の外には面会謝絶の札が掛けられているだろうが、『身内』という扱いになっている彼女は通してもらえるようになっていた。
 突っ伏して眠る少女の頬は乾いていたが、疲れの翳りが色濃く差している。かなりの無理を強いているのは明らかだった。
 いつ、来たのだろうか。それ以前に、今はいつなのだろう。
 カーテンを通して届く日差しは夕暮れの訪れを告げている。最後の記憶は定められた起床時刻よりも早い時間だったが、今がその日の夕方であるとは限らない。何しろ、その記憶は揺らぎ暗転する意識の中でかろうじてナースコールボタンを押したところでぶつりと途切れているのだから。
 指先をそろそろと動かして、ヒトミの手を握り返す。力は入らなかったが、指をかけることだけは成功した。
 こんな姿勢でうたた寝させていてはよくない、と思ったものの、まともに声を出せないのでは呼んで起こすこともできない。呼んでもいいが、その場合、彼女が目を覚ますのは呼ばれてというよりも綾人の変調によってだろう。それは避けたい。己の身を労わってではなく、彼女に不要な心配を新たに与えることはしたくなかった。
 せめて、握った手を引っ張ることで起こせないものかと、腕をずらしてみる。
「んん……」
 振動が伝わったのか、ヒトミが声を洩らした。
 しかし、睫毛が動いただけで、目を覚ます様子はない。熟睡していることはないだろうが、起こせるほどの刺激には至らなかったらしい。
 起き上がって、彼女の耳元で声をかけて、その肩を揺さぶって。――そうすれば、ヒトミはすぐに目を覚ますだろう。寝ぼけてとろんとした顔を見せるくらいはするかもしれないが。
 本来ならいともたやすく叶うはずの、それだけの行為が、今の自分には不可能である、その事実が口惜しい。
 そんなこともできない状態にある自分があまりに情けなくて、看病しているうちに疲れて寝入ってしまうほどヒトミに無理をさせていることが腹立たしくて――病状によるものではない痛みが胸にわだかまる。
 本当に、これでよかったのだろうか。
 これまで幾度自問したか、そしてそのたびにヒトミに強い意志の光で否定されたか数えられない疑問。愚かだと知っていても、浮かぶ問いを消し去ることはできない。
 本当に、彼女にこの道を選ばせてかまわなかったのだろうか。
 こんな、常に死と隣り合わせの生を細々とつなぐ病人の傍らで、そのよすがとさせる道を。
 自ら選んだことだと……今度こそ離れないと言い切り、綾人が惑うたび叱咤し、はげまし、導き、支え、いつでも凛と立っているように見える少女。けれども、こうして眠る顔はただの一人の女の子のもので、全てを背負わせるにはあまりに酷だ。
 いっそ、出逢わなければよかったのだろうか。あるいは遠くで見ているだけならよかったのだろうか。
 ――あのまま、二度と会いに行かずにいればよかったのだ。そして、彼女が何と言おうと頷いたりせずに、一度そうしたように身を引けばよかったのだ。そうすればきっと彼女はこんな苦労などしなくてよかった。つきまとう喪失の恐怖など味わわせずに済んだ。
 仮定に仮定を重ねても無意味と知っているけれど。
 どれだけヒトミに否と言われても、後悔はもはや己と不可分のものだった。
 ごめんね。――そう心の中で呟く。
「……城、……ん輩――」
 小さな声が間近に聞こえる。
 綾人ははっとして注視した。だが、寝言だったらしく、しばらく経ってもその瞼は開かなかった。
 握り込んでくるヒトミの手の力が、いくらか強まる。触れた手の温かさがよりはっきりと伝わった。
 そういえば、しばしばこうやって手をつないでいる気がするな、とふと思う。現在ばかりでなく、高校時代にも手を取り合ったまま過ごしたことが幾度かあった。あの頃もいまも、そこから得られるものは変わらず溢れるような生命力と眩しいほどの輝きで、流れ込むぬくもりは優しく、それでいて確かな力強さを欠くことはなくて。いつでも、彼女が差し伸べてくれる手に救われている。
 この手を一度離したのは自分で、それが良かれと思ったはずなのに、耐えきれなくてまた求めてしまったのも自分。唾棄すべき己の弱さを、彼女を見るたび思い知らされる。
 ヒトミに甘え、与えられるばかりで自分は何も返せない。縋ることしかできない。本当は、彼女をこそ守り支えてやれる男でいたかったのに。山積する不安などない、『当たり前の幸福』を彼女にあげたいのに。ヒトミは、勁くてまっすぐで明るくて前向きで優しくて、……同じだけの脆さも弱さも秘めた、普通の女性なのだから。
 けれども、眠る彼女の髪を撫でてやることすら、今の自分にはできない。
「先ぱ……い……」
 また、ヒトミが呼びさす。夢の中の自分は何を喋り、どう振る舞っているのだろう。
「大好、き――」
「……っ」
 寝息にまぎれて告げられた一言に、綾人は不調のせいではなく呼吸が止まりそうになる。
 あまりにも、何気なく。偽りなどなく。
 たった一言で、全てを塗り替える。
 泣きたくなるほどの幸福感と、同じだけの絶望と。メビウスの輪のように繰り返し表裏の区別のない想い。
 いっそ、つらい夢をみていたならよかった。そうして泣いてでもいたなら。思い切って、再度この手を離す勇気が出たかもしれないのに。
「僕も、好きだよ……」
 声は出せなくて、唇の動きだけで、綾人は呟いた。聞こえるはずはない。ただ答えたかった。
「……でも」
 ごめんね、と、再び心の中で謝罪する。
 ――僕は、君を置いて逝く。こんなにも僕を慕い、変わらず傍にいてくれる君を。それは、遠いことじゃない。ごく近い未来の、消し去れない現実という名の引導だ。
 発病から、年を追うごとに間隔が短くなってゆく入退院のサイクル。その要因となる、頻繁になっている発作。それを考えれば、ひろげられ待ち受ける予定図は自ずと明らかだ。
 いつまで、こうしていられるだろう。
 現在のところ、死はその淵に佇むだけのものに留まっているが、次にそこを訪れた際に引き返すことが可能かどうかは誰にも保障できない。比喩ではない、明日にでもこの鼓動は停止するかもしれないのだ。
 綾人は再び指先をずらして、形だけでも今度はしっかりと手を握りなおした。
 幸せな夢、なのだろう、疲れの抜けないヒトミの顔には、それでも嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
 自分がこの世界からいなくなったら、彼女はその先、どうするのだろうか。後悔せずに、いてくれるだろうか。悲しみの果てに、今度こそ――いつか忘れて、しまうだろうか。
 それ以上考えることに疲れを感じて、綾人はゆっくりと瞼を閉じた。
 もう一度だけでも見たいと願ってしまった、夏の日差しよりもなお明るい笑顔。それだけを抱えて、それだけを最後の記憶にして、逝くことができればいい。
 けれども、その時彼女に、自分はいったい何を遺してやれるのだろうか――。




「……あっ?」
 ヒトミはがばりと跳ね起きた。慌てて周囲に視線をめぐらせて、ここが病院の一室であることに思い至る。
 うっかり寝入るほど疲れていた自覚はなかったが、ここ数日の寝不足がここへきて祟ったのかもしれない。そんな時ではないというのに。
「先輩……?」
 白いベッドに目を戻すと、浅い呼吸で眠る綾人の姿。
 その表情は苦しげなものではなくて、ヒトミは安堵の息をついた。一時は危ぶまれる状態だったが、随分落ち着いたようだ。
 カーテン越しの光の角度と、点滴の液量の残りからすると、うたた寝していたのはそれほど長い時間ではなかったらしい。
 ヒトミは包んでいた綾人の手をそっと持ち上げ、引き寄せた。最初ひどく冷たかったそれは、つないでいるうちにヒトミの体温が多少移ったのか、それほどでもなくなっている。
 綾人は今、ここにいる。こうして顔を見て、触れられる距離に。
 半年前には、夢にすぎなかった。もう二度と会えないのかと悔やみ続けていた。己の鈍感さがその事態を招いたとつくづく思い知らされて、ただ打ちのめされていた。
 突然の離別と、やはり突然の再会。本当は、顔を合わせる気は彼にはなかったのだとヒトミは知っている。偶然が後押しをして、ヒトミが綾人を発見してしまわなければ。
 今度は、間違えたくなかった。綾人が自分を拒んでも、もう離れる気はなかった。哀しい優しさで距離を置こうとする姿を、そのままにはしたくなかった。
 僕といたら、不幸になるよ。綾人はそう言うけれど、会えないままの不幸に比べたら、この先どんなことが起こってもずっと幸福でいられる自信がヒトミにはある。
 時折見せる伏せられた眼差しに、曖昧な微笑みに、綾人の戸惑いを感じて、そのたびに笑い飛ばして。いたくてここにいるのだと、少しでも彼に判ってほしいと思う。
 ヒトミは、引き寄せた手を頬に当てた。自分より一回り大きな手は、決して幻などではない。そこに確かに、彼は存在している。
「あなたが、好きです」
 息遣いだけで、ヒトミは囁いた。
 夢の中でも、同じことを告げていた気がする。どんな夢だっただろう、目覚めた途端におぼろげになったけれども、それは優しくて暖かくて甘い余韻を胸に残している。
「ずっと、大好き……」
 綾人の手に頬擦りして、顔を覗き込む。眠りは穏やかで、静かで、守られるべきものだった。
「黙って独りでなんか、死なせてあげませんから。来年だって再来年だって、一緒にいますから。先輩が信じないなら、信じたくなるまで言い続けてあげますから」
 だから。
「――覚悟、しておいて下さいね?」




 再び交差した道。


 その行く先は、闇の向こうにある。


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