feel of half-bitter
――そこにある、想いは。
「義理……義理、か……。はは、そうだよ、な……」
日本中、どこか甘い香りが漂うような、空気が浮かれたようなこの日、鷹士は朝のリビングで「はい、バレンタインのチョコ」の一言と共に妹から渡された箱に、力なく震える声を隠せなかった。
女の子らしい可愛らしいラッピングに、大きく躍る『義理』の文字。誤解の余地もない。
「でっでも一応手作りだよ、昨日キッチンを占領してたから知ってるでしょ? お兄ちゃん、ナッツ入りのが食べたいって前に言ってたから、お兄ちゃんのだけ刻んで混ぜてみたし。味は保障するよ」
「いや、うん……そうだな、いいんだ。義理でも何でも、お兄ちゃんは嬉しいぞー!!」
「それなら、いいんだけど……。あの、お兄ちゃん、そんなに箱を握り締めたら中身が崩れる――」
「崩れたって何だって、兄ちゃんだけへの世界でたった一つのヒトミからのチョコだぞ、この感動を伝えなくてどうする!」
自らを鼓舞する気持ち半分、妹へのデモンストレーション半分、鷹士が力説してみせると、ヒトミは曖昧な笑みを見せた。苦笑、に近かっただろうか。
行き過ぎた兄だとは思うが自分のことを特別に扱ってくれているのは知っているからちょっと申し訳ない――そんなことを考えているのが手にとるように見えて、鷹士はますます愛おしさを感じる。思っていることがすぐ顔に出るのは、妹の幼い頃からの性分だ。
その当時から可愛かったが――現在の二倍の体重があった頃だって可愛さには翳りもなかったが、この二年ほどで本当に綺麗になったと思う。大切に大切に包み込むようにしてきた、たった一人の妹。ヒトミをここまで綺麗にしたのは、結局のところ自分ではなくて。
しばらく逡巡した末、恐る恐る、鷹士は訊ねてみた。判ってはいることだが直接はっきり聞いておきたい、だが聞くのも怖い、そんな二つの思いで。
「で……その、何だ……、ほ、本命、には――これから渡すのか?」
問うと、ヒトミは幾分淋しげな色合いを瞳の奥に宿らせた。
「今日は、渡さないよ。渡しても、きっと内心困っちゃうだろうなと思うし……だから、今度にする」
「……そうか」
鷹士は短く相槌を打った。どこかほっとしている自分に気づいて失笑してしまう。日延べしたところで、大事な妹が他の男に本命チョコを用意しているという事実に変わりはないのに、目前の絞首台の階段の段数が増えた気持ちだ。
「あっあの、だからって勝手にチョコ、取っていかないでよ」
この兄なら「ヒトミのチョコを他の奴になんか渡すもんかー!!」と叫んで奪い取りでもしかねないと思っているのか、不審げな眼差しが向けられている。
実際そうしたいところではあったのだが、そんなことをしたらヒトミは当分口もきいてくれなくなるだろう。かような事態は避けたい。
「しないよ。兄ちゃん、約束は守る。そうだ、何なら、指切りするか? ああ、おまえがちっちゃい頃にはよくやったよなあ……お兄ちゃんが学校に行く時間になるたびに、泣きながら『お兄ちゃん、一緒にいてくれなきゃやだー』っておまえがしがみついてきてさ……うんうん、ほんっっとーに、あの頃からおまえは可愛かったよなあ」
「そ、それ、昔の話だから。……じゃ、私、学校行ってきます。午後から神城先輩のお見舞いに寄るけど、夕飯までには帰るね」
床に置いていた鞄と手提げ袋を持ち、ヒトミは鷹士に手を振って見せた。
「ああ、気をつけてな」
精一杯優しく笑って、妹の細い背を見送る。その姿が玄関のドアの向こうへ完全に消えるまで、鷹士は視線を外すことはしなかった。
――神城の見舞い、か。結局、そういうことなんだよな。
溜め息をついてどさりとソファーに腰を下ろし、もらった箱のラッピングをがさがさと開封する。
やがて現れた中味に、鷹士はがっくりとうなだれた。
「ヒトミ……おまえなあ。チョコにまで『義理』って書かなくても」
兄の為だけだという、刻んだクルミとアーモンドが入ったチョコレートには、はみ出しそうな大きさで二文字が入れられている。ピンク色で書かれている分だけ可愛いのかもしれないが、それだけにあまりに残酷だ。
「包装で打ちのめされてるんだから、追い討ちかけてくれるなよ」
鷹士はヒトミの姿を脳裏に描いた。今頃は、マンションの外に出たところだろう。
ほんの二年前には、嬉しそうに「お兄ちゃんのは特別だよ」とチョコを渡してくれた妹。今、その視線の先にいるのは自分ではない。
決して認めない、と宣言するのは簡単だ。相手の男に宣戦布告したっていい。むしろしてやりたい。俺の大事な妹はおまえには渡さない! と。
だが、実際には。
一体何を言えるだろうか。
神城の具合が悪いといっては落ち込み、神城が入院してしまったといっては隠れて泣き、神城が退院するといっては飛び跳ねてはしゃぐ妹に。病院からの帰り道、ほどけないようにしっかり互いの指を組み合わせて手を握って歩いていた、その笑顔に。
「最初から、そんなの判ってるって」
そうだ、初めから勝負にもなりはしない。
一昨年の年の瀬、神城が入院したらしいと伝えた途端に、ついていくという鷹士の声をあっさり振り切って出かけていったヒトミ。退院を迎えに行く途中でヒトミが事故に遭った、という知らせを受けた際、取り乱しながらその元へ向かった鷹士よりも先に、息せき切って駆けつけていた神城。よほど無理をしたのか、青ざめた顔色は、そのまままた入院患者に戻るのではないかと思われるほどだったが。
結論は、あの時点で出ている。認識したくなかっただけだ、長い間護り続けた、己にとって唯一の宝物をさらわれる現実を。
我ながら大人気ないな、と思わなくもないが、これが自分という人間なのだ。
苦笑いして、鷹士はチョコレートをひとかけ割り取り、口に放り込んだ。
「ん、うまい」
甘さを控えてなめらかに仕上げられたそのチョコは、義理とはいいながらも兄を慕う思いが籠められているのは感じ取れるもので、それだけで何とはなし嬉しくなる。
ヒトミが、そしてこのマンションの住人が通い、あるいは通っていたセント・リーフ・スクールは、程近い距離にある。そろそろ、学校の友人と通学路の途中で合流した時分だろうか。
まもなく卒業を迎えることもあり、既に三年生は自由登校になっているが、ヒトミは律儀に通学している。それは、何に対しても中途半端を嫌がる部分もあるのだろうが、『下校の足で病院に寄り道をする』という、続けてきた習慣を変えたくないからかもしれないな、と鷹士は推測してみる。おそらくそれは大筋では外れていないだろう。
神城が抱える病が具体的には何なのか、鷹士は知らない。知る必要もないと思っている。
入居してきてから既に三度になる――検査入院とやらを入れれば四度か――繰り返す入退院と、妹の沈む顔を見れば、どういう性質のものであるのかの想像はつくが、第三者が軽い気持ちで口を挟むことではない。妹可愛さで曇りがちな目でも、それくらいの分別はつく。
「神城も、悪い奴じゃ、ないんだよな……」
フェミニストとはこういうものかと時に呆れそうになる、万人向けの微笑みと態度に、不安になることがないではないが。ヒトミに対してだけは真摯さを失わない眼差しは、信じていいだろうと思う。大切な妹を理由はどうあれしばしば泣かせていることについては許しがたいものはあるにしても。そして、おそらくこの先も泣かせることになるのかと思うと、やはり二人の間柄を認めたくない気持ちを抑えきれないけれど。
――この想いは、決して恋情ではない。
ゆっくりと、自らの内で渦巻く思いを辿りながら、鷹士は結論づける。
自分がもう少し子供だったら、同一視して勘違いしていたかもしれないほどの、恋心に限りなく近い、しかし異なる感情。半身よりも更に重きを占める、大事な宝物への愛情。触れれば壊してしまいそうで、大切に抱え込んできた。そんな幼稚な独占欲。
「許すしか、ないじゃないか」
鷹士は鼻白んで呟いた。
断固、表だって認めてなどやらない。いくらでも横槍を入れてやる。今すぐということはまかり間違ってもないだろうが、いつか遠い将来にでも神城が「妹さんを僕に下さい」などと言ってきたら、父の代わりに頑固親父さながら頭ごなしに怒鳴りつけてやる。
それでも負けないほどの、強い絆をヒトミと神城が結び合わせているというのなら。
道半ばで一方の未来が途絶えない限り、放っておいたって、最後に二人は幸せになるのだろう。今、以上に。
「はー……でもどうしても、やりきれないよなぁ……」
あんなにあんなに可愛くて、手放すことなど考えもつかない愛しい妹を、横からとんびに油揚げさらわれた恰好になるなんて。
こんなことなら、二年前、入居者が増えたと喜んでいないで、悪い虫の危険性を考慮すべきだった。自分が目を届かせていれば大丈夫だと信じていたのは過信にすぎなかったと、思い知らされてからではなく。
「でも、さ、ヒトミ……」
もうひとかけら、チョコを噛み砕いて、鷹士はここにいない少女に向けて囁いた。
「兄ちゃん、おまえに、いつだって心から笑っていてほしいから」
それが妹の選んだ道なら。自分も知っていて、不承不承でも悪い奴ではないと許容せざるを得ない相手なら。本気で反対できるわけがない。
やっぱり実に妹に甘いよな、と、溶けて指についたチョコレートを舐めながら、鷹士はかすかに笑った。
「――だから。せいぜい、さっさと幸せになっちまえ」
独語は、チョコの苦味と共に胸に滑り落ちた。
抱く想いは、他の誰にも譲れない、自分だけの――兄の特権。