「……じゃあね。僕の、大切な――……」
そして道は、そこで分かれた。
刻の果て、君を想う
たとえばこんな夜は、君のことを思い出す。
ひどく静かで――ベッドのわずかな軋みさえも、どきりとするほどはっきりと響く夜。常なら気にも留めない自分の呼吸や拍動も耳について離れない、そんな。
空虚に流れる時間、思い煩うことの種すら尽きて。白々しく味気なくて。……ただ、君を想う。
綾人は窓辺の壁に背を預け、ぼんやりと外に目をやっていた。
消灯時間をとうに過ぎた病室から見る病院の敷地は、常夜灯に淡く照らされ、ひっそりとしていて物寂しい。そこから更に遠くへ目をやれば、街の明かりがなお活動中であることを宣言しているが、『外界』から切り離され独自の営みを持つここは、既に眠りの時間を刻んでいる。無論、誰もが眠っているわけではなく、今まさに生死の境に踏み入る戦いがこのどこかで繰り広げられているのだろうが。
天秤が生と死のどちらに傾こうとも、世界はさして変わらない。どんな理由にせよ誰かがいなくなれば、空いた場所に別の誰かがやってくる、ただそれだけのことだ。そしてそれは、この部屋も例外ではない。
もたれた壁に手を当てると、どこまでも冷たかった。
あの日、僕が渡したカスミソウの花束を抱えた君は、とても綺麗だったね。今はきっともっと、綺麗になっているんだろう。
本当は、ずっと見ていたかったよ。変化してゆく君を、その傍で。でもそれは、不可能だと知っていた。
僕は、あまりにわがままだと思う。君に余計な重荷を背負わせたくなくて、自分から一方的に姿を消したのに。君につながるもの全て、断ち切ったはずなのに。
君の笑顔が、今も鮮やかに思い出せる。その声も、何気ない仕草も。
眩しい日差しのようで、どこまでもまっすぐで、だからこそ撓めたくなかった。……それなのに、僕は。
「あ……」
床が突然抜けたようにぐらりと天地が揺らぐ。
力が抜けた膝を支えられずに、綾人はその場に座り込んだ。壁に沿って滑り落ちる恰好になったせいでパジャマの生地が引っ張られることになったが、それを意識することはなかった。
ベッドに戻らなくては、と頭の片隅で思ったものの、一度崩れた膝は己の命令に背き、立ち上がることはできなかった。
ざわざわと耳鳴りがする。末端から躯幹に向け体温が奪われ冷えてゆくのを感じた。読書の為につけていたはずの明かりさえも、視界は暗闇に支配権を譲り渡したのか用を成さず、何も見えない。
固いはずの床は、時に方向をうねらせ逆転させ、揺れ続けて感じられた。
――ヒトミちゃん。
もう一度、君に会いたいと言ったら、君はどんな反応をするだろう。
笑うだろうか。怒るだろうか。嘆くだろうか。迷惑がるだろうか。それとも……もう、僕という存在のことなんて、完全に忘れ果てているだろうか。
……その方が、いいのかもしれない。忘れないでいてくれるかと図書室で会った時に言ってしまったけど、撤回しよう。覚えていて欲しいなんて虫のよすぎる頼みだ。君は、僕のことなんて記憶から消し去って、日々を過ごしていてくれてかまわない。
僕は君に、何の益ももたらさない。君が向けてくれた想いに、優しさに、応えてあげられない。
それでも今、僕は……君にまた会いたいと願ってしまっている。
綾人は激しく咳き込んだ。余力の全てがそれに費やされるほどに。
「っ……!」
胸を侵蝕する熱さが加速度的に増大し、喉元にせり上がる。溢れ伝うそれは己の血液なのだろうが、光を喪った目に映ることはなかった。ただ、これまでにないほどの量の血を吐いていることだけは自覚できた。
息が、できない。わずかに吸い込もうとした空気よりも逆流し溢れる血液の方が多かった。
既に耳鳴りすらも聞こえない。残ったものは完全な静寂。それは待ち受ける終末の片鱗。
自分が今、まだ座っているのか床に転がっているのか、もはやそれも判然としなかった。
意識が闇に掻き消えるその瞬間、静寂の中に懐かしい声が一瞬戻った気がして、綾人はかすかに微笑んだ。否、そうしようと思った、だけなのかもしれなかった。
直接会いたいなんて、言わない。僕にその資格はない。
これが一番正しかったんだと現在でも思っているけれど、何も告げずにいなくなった僕は、きっと、逃げたのと同じことなのだろうから。
君に全てを告白して、君と向き合うことはできなかった。
僕はいてはならなかった。君には、何も知らずに……いてほしかったんだ。傲慢で、独りよがりで、でもこうする以上の選択肢を思いつくことはできなかった。
僕はただ、君に笑っていてほしかった。夏の太陽を一途に目指す向日葵のように。鮮やかな光の中、萎れることなく。
もう一度だけ――どこか陰からでいい、君のその笑顔を、最後に見られたらいいのに。はっきりと覚えているのよりも少しだけ大人びた君の姿を。
その記憶だけを抱いて逝けるなら、僕はとても幸福な人間なのだと、思う。
ああ、いつ、君に会いに行こう?
誰よりも大切に思う君に、僕のひそかな希望だった君に……いつ再び会えるだろう?
病室の扉が、静かに開かれる。
「神城さん、もうとっくに消灯で……、あら? 神城さん?」
巡回の看護師は室内を覗き込み、訝しげに見回した。
ほの明るい病室の中、窓際で倒れ伏す人影に気づくのに、時間は要さなかった。じっとりと重く濡れたものが、綾人のパジャマの胸元を赤黒く染め、それはリノリウムの床になおも広がりつつあった。
「……神城さん、どうしました! 判りますか? 今、先生を呼びますからね」
ぐったりとくずおれたまま――綾人がかけられた声に答えることは、なかった。
容態急変をセンターに告げる看護師の緊迫した声が夜の静けさを破る。
――天秤が、今大きくふれる。
ねえ、ヒトミちゃん。
君は知らなかったかもしれないけど、気づかなかったかもしれないけど、そしてそれでよかったんだと思うけど――、僕は、君のことが、大好きだったよ。
そして。
ずっと変わらずに、大好きだよ……。