導きの手


「綾人さん?」
 桜の花びらが舞う道の途中、声を投げられ、僕は我に返る。寄り添う隣で呆れた顔が見上げていた。
「え……何か言った? ヒトミちゃん」
「また、ぼーっとしてる。気持ちはわかるけど、私だってそうですけど、もうちょっと周りを見てないと危ないですって」
 言われて立ち止まり、左右を見やると、さっき認識したのとは既に違う風景。すぐ脇を自転車に乗った男性が通り過ぎていく。
 完全に意識がとんでいたみたいだ。悪い方向性でなら意識の欠落は慣れっこなのだけど、今みたいなのは人生を振り返ってもなかなか経験したことがない。彼女の手を握ったまま、僕は苦笑した。
「ごめん、すっかり駄目になってるな」
 まだ、脳裏で一つの言葉がリフレインしている。あまりにも夢のような、できすぎた嘘のような。だけど差し出されたこれが現実。

『明日にもというわけにはいかないが、必ず完治する』

 発病以来の担当主治医である先生の言葉が繰り返されて、でもそれはまだどうしても僕の中に染み込みきらなくて。嬉しいより何より、信じられない思いばかりが先行する。
 それでもやっぱり、突然濃霧が振り払われたような世界がここにあるのを感じるのも事実だ。ああ、二つの感情を融合させるのは本当に難しい。
「もう、しょうがないなあ。いいです、マンションまで責任持って私が連れ帰ってあげますよ」
 先ほど二人して草の上に転がってしまった名残か、まだ草の枯れ端らしきものを髪に残したヒトミちゃんが、こらえきれないといった顔で笑う。
「うん……頼もうかな、本気で自分が使い物にならない気がしてきた」
「はいっ」
 元気な返事と共に、握った手に力が籠められた。
 これまで、彼女の笑顔にどれだけ励まされてきたことだろう。僕の道標、導きの灯火。暗がりの中で、ひときわ明るく輝く光。そして今も、僕はその光に照らされている。
 髪についた枯れ草を指でつまみ取ってあげると、くすぐったげに目を細める僕の希望。
 もう、少女じゃない。その変貌をこの目で見ることは叶わないのかもしれないと一旦は諦めかけたこともある、思い描いていたとおりのすばらしいレディ。そこにしばしば覗かせる幼さの名残も愛おしくて。あまりに――眩しくて。
 突如こみ上げる息苦しいほどの想いに、気がつけば僕は空いている腕で彼女を抱き寄せていた。息を詰めて、細い肩に頭をもたれさせる。
「え、わっ、綾人さん!?」
 ヒトミちゃんの声が耳元で聞こえる。退魔の鈴の音よりも確かな、それは清浄な響き。
「いきなり、ごめん……」
 そう口を開くのがやっとだった。
 自己の統制から逃れ、勝手に暴れようとする呼吸と拍動。あぁこら、ヒトミちゃんに迷惑がかかるじゃないか、と頭の片隅で諌める、もう一人の僕の声。それでも僕は彼女を離すことができずに抱き締めたまま、せめても呼吸をととのえようと、わずかに息を吐いた。
 一度狂ったコントロールに引きずられて、軽い眩暈までおぼえる。こういった部分に、続く道があくまで示されただけであって自分の身体がまだ実際には全く治ったわけじゃないことを思い知らされたのだけれど、それでも揺らぎはすぐに過ぎ去り、僕は彼女の肩にじっと頭を預けた。
「あの、綾人さん、平気ですか……? まさか急に具合悪くなっちゃったとか」
 不安げな気配が彼女の声に宿る。実際、過去の事例を鑑みれば、僕の息遣いや態度はそう受け取られる方が自然なもので、心配させるのも無理はないかもしれなかった。
「大丈夫……そういうわけじゃ、ないから――」
「だけど……」
 どうにか暴れるものの手綱を再び掴み、深呼吸を繰り返す。おずおずと回された手が、促すように僕の背を撫でていた。
 愛しくて、手放すことなど二度とできそうにない僕のたった一人の特別な女性。腕の中のぬくもり。そうだ、彼女と重ね織りなす『未来』を、僕は手に入れた。
「ああ、でもそうだね……やっぱり駄目かもしれない」
 怒涛を抜け、じわじわと広がってくるさざなみのような感情に身を浸しながら、僕は呟いた。
「幸せすぎて……頭がぐるぐるして、そろそろ知恵熱が出そうだ」
「……もう、綾人さんてば。しゃれになりませんよ、それ」
 急に気が抜けたのだろうか、呆れを含んだと判る小さなくすくす笑いが間近に降る。ほんのわずか、泣きそうな震えも紛れ込ませて。
 僕はようやく預けていた頭をゆっくりと浮かせ、彼女の顔を覗き込むように見つめた。きらめくまっすぐな眼差しが、僕へと返ってくる。
「もし熱を出したら、看病してくれるよね?」
 悪戯めかして問えば、笑みと共に華奢な肩をすくめてみせる仕草が愛らしくて。
「もうこれっきりですよ?」
「あれ、今回だけなの? 残念だな」
「だって、そんなのもう、必要なくなるじゃないですか。そりゃ、この先、風邪くらいはひくだろうし、それは別枠にしますけど」
 迷いのない言葉に、僕は思わず目を見開いた後、眇めた。彼女のそのまばゆい輝きに。
 やっぱり僕は、彼女にかなわない。そう、それこそ、一生。
「……じゃあ、今のうちに目いっぱい甘えておこうかな。チャンスは活用しないとね」
 もう一度しっかり抱き締めてから、彼女の身体を解放する。結局最後までつないだままでいるお互いの手が、何だか妙におかしい。
 僕はその手をぎゅっと握り締め、笑いかけた。
「とりあえず。……マンションまで連れて帰ってくれるんでしょ? お願いするよ」
「はい、じゃあ行きますよ」
 頷いて歩き出すヒトミちゃんに合わせて、僕も足を踏み出す。
 それは、これまで彼女に導かれてきた道程のようで。並ぶような、言葉通り手を引かれているような、先へとひらかれる道。
 幸福感は、重ねた手の温かさから静かに伝わってくる。
「ヒトミちゃん」
「何ですか?」
「僕は、まだこの先も当分、長く僕を蝕んできた病気と付き合っていかなくちゃならない。全部まだ、スタートしたばかりなんだ。治療がこれから正式に始まって、むしろその方が現在より苦しい思いをするかもしれない。……でも、治すから」
 前方を見やったまま、僕は話し続けた。
「治る、んじゃない。そんな受動的なことに僕は頼らない。必ず治すから。だから……ずっと、見ていて欲しい。この手を、離さずに」
「もちろんです」
 柔らかな声音が、光の粒子を含んで届いた。
「綾人さんが嫌だといっても、離しませんよ。だって……私が、綾人さんの傍にいたいんですから」
 返るのは、一番欲しい言葉。聖なる誓約。
「うん……ありがとう。そして、これからも――よろしく」
 温かな掌。絡められる指。僕の抱く想いと彼女のそれが融け合い、同じ配分で分かたれて。

 ――君と出逢えて、本当によかった。世界でたった一人の君に。

 声に出さずに囁いて、僕は彼女と同じ速さで歩き続ける。
 前を見て。
 確かな導きの手を信じて。


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