春には満開の桜の下で。夏には向日葵畑で背比べして。秋は色のグラデーションを重ねる秋桜と銀色の薄野原。そして冬は――ああ、山茶花はあまり好きじゃないから、君には不香花を贈ろう。冬に花ひらく、香りを持たない花。六花。君の心と同じく、きらめき輝く雪の結晶を。
春も、夏も、秋も、冬も。君と共に在って。
僕は、子供のようにはしゃぐ君を見ていよう。
君はどんな花よりも綺麗で、どんな風景よりも鮮やかで。
そして僕は、どんな宝石よりも貴重な宝物をこの腕に抱き締める。
promised season
「神城先輩、お誕生日おめでとうございます」
ふわ、と微笑して、少女は綾人を見た。その笑みが、より明瞭なものになる。
「それから。退院できて、ほんとによかった」
「うん……ありがとう」
あまり飾り気のない、マンションの綾人の部屋で、二人は並んで座っていた。テーブルの上には、自然素材を中心に使って作られた小さなケーキと、ティーセット。ささやかな、祝いの品だ。
綾人はクッションにもたれながら感慨深く言葉を口にした。
「ヒトミちゃんのおかげだよ。君が、支えてくれてるから。いつも、いつも」
「私なんて……。頑張ったのは、神城先輩自身でしょう?」
ヒトミの声に、綾人は軽く首を振った。
「君の言葉がなければ、僕はまだきっとあそこにいた。白く無機質な――でも僕にとってはあまりにも馴染んだ、病室に。世界から隔てられた場所に」
呟きに自嘲の響きは含まなかったが、それに近い色合いが、瞳を掠める。
一ヶ月半以上にわたる入院生活を終えて、綾人がこのマンションに戻ってきたのは、たった二日前のことだ。まだ無理はできないから、こうして起き出していられる時間もそう長くはないが、少なくとも普通にヒトミと過ごせるこのひと時がどれほど得がたい幸福を運んでくれるものであるのか、綾人はよく知っている。
「ヒトミちゃん、言ってくれたよね。もし結果がよくなくても、退院できる話が出てくるだけで嬉しいって。それがなかったら、その時点の数値に問題がなかったとしても、また直前で調子を崩してしまっていた気がするし……だから、全部、君が引っ張ってくれたんだ。光の方に」
あの瞬間の感情の揺れを、一体どう表現すればいいだろうか。あまりにも当たり前の顔をして差し出された灯り。そこに疑いはかけらも含まれていなくて。それは、自らが抱いていた澱んだ負の思考とせめぎ合い、ぶつかり合い。胸の奥をかき回して。
感情の奔流を受け止めきれずに、耳鳴りさえ聞こえた気がした。泣きたいような、笑いたいような、怒りたいような、嘆きたいような。おそらくそれは、その全てで、でも同時にどれも違った。
少女が傍らにいる限り、信じ続けることを自らに課して。それでいながらすぐに袋小路へ迷い込んで。結局また、導かれている。酷だと知っていながらも、伸ばされる手を離すことができない、離す気もない、利己的な自分。
どれほど彼女が己にとって特別な存在になっているのか、そのたびに思い知らされる。与えられるたった一言に、さりげない微笑みに。
「本当に、感謝してる……」
いや、こんな陳腐な語彙では足りない。しかしそれ以外を見つけることもできない。書物なら人並み以上に目を通している自信があるが、求めるものに対して、言葉はあまりに無力だ。
綾人はそろりとヒトミの髪を撫でた。初めて会った頃よりも長めに伸ばされた髪の毛は、さらさらとして柔らかかった。
仔猫のように目を細めて、ヒトミは髪をなぶらせていた。
「でも……やっぱり、先輩のことは、先輩にしか決められないから。勝手に全部判った気になるなんて、誰に対してもきっと失礼だから。それだけは間違えちゃ駄目だって知ってるから。だから私は、こうやって神城先輩が予定通り退院できて、近くにいられるのは、間違いなく、先輩自身の頑張りだと思います。もっと、自信を持っていいんですよ?」
髪と同じ、流れる優しい声音は、枯れた地に降る雨のようだと綾人は思う。静かに染みとおり、癒すもの。
「それより、ほら、せっかく用意したんだから、そろそろこれ食べませんか? 甘さ控えめ、低カロリー。ちゃんと考えてます」
ふふっと笑って、ヒトミは皿の上のケーキを示す。綾人は触れた髪先にキスを落とし、手を引いて頷いた。
「そうだね、ヒトミちゃんの手作りケーキなんだから、しっかり味わわないとね」
「あ、その前に。誕生日プレゼントも持ってきてるんですよ。忘れないうちに先に……、はい」
まばたきしてから、ヒトミは横に置いていた手提げ袋から小さな包みを取り出した。
「え? バレンタインにもプレゼントをもらったのに、またこんなの、いいの?」
その時受け取った蒼いガラスの置物は、すぐに目に入るサイドボードの上に飾られている。激しく自己主張することのないそれは、部屋の中でしっくりとおさまっていた。
「はい、あれはあれですから」
「そっか、ありがとう。開けるよ?」
こういった場合の贈り物は、その場で開封するのが礼儀だ。一言断ってから、綾人はラッピングを解きにかかった。
やがて中から現れたのは、繊細な細工を施された、携帯ストラップだった。幾筋もをより合わせた細い銀の糸でつながれた透明な珠の中に、一枚だけ桜色の花びらが封じ込められている。
「何だか、芸がない気がするんですけど……。去年、修学旅行のお土産で買ってきたストラップは、少し傷んできてるでしょう? 新しく、つけてもらえれば嬉しいなって。バレンタインのは置いておくだけのものだけど、持ち歩いてもらえるものも、あげたかったから……結局こんなのになってしまって」
ささやかな気遣いを見せる少女が、自信なさげな面持ちになる。
「変……でしたか?」
綾人はストラップを手に取った。しゃらり、と澄んだ音が立てられる。
「いや、すごく嬉しい。今つけているのとは方向性が違うけど、これも……やっぱり君みたいだ」
押しつけがましい派手さはなくて、透き通っていて。そして何よりも。
「春を、呼び込んでくれているような感じがする」
己の中で失くしかけていた、季節の息吹を。忘れているだけでいつでも本当はそこにあって、携えていていいのだと。
陽射しと、そよ風と、春の匂いを。
照れ隠しのように睫毛を伏せるヒトミの肩を、綾人はそっと抱き寄せた。
「やっぱり、ケーキは後でもいい? それよりもこうしていたいんだけど」
「後でちゃんと、食べて下さいね?」
そんな言い回しで、ヒトミは承諾する。綾人はくすりと笑った。
「うん、残したりしたらもったいないからね。君が作ってくれたのに」
綾人は携帯ストラップをテーブルに置いてから、自由になった手でヒトミのそれをついと持ち上げ、唇を当てた。口づけ、よりも優しく、慎重に。
手の甲に、細い指先に、そして――掌に。
「あ……」
恥ずかしそうに俯くヒトミの華奢な手を、最後に頬擦りしてから綾人は己の首に誘導した。
「どうするかは、ヒトミちゃん次第だよ……?」
問いに見せかけた促しを向けると、恥ずかしげな気配はそのままで、そろそろと腕が回される。
「……この状況で、他に選択肢があるとは思えないんですけど」
「僕を突き飛ばして部屋を出て行くっていう方法は、とりあえずあるでしょ?」
「そんなことができるなら、最初からここにはいません」
拗ねた子供のような呟きに、綾人は少し姿勢を変えて、ヒトミを両腕で包み込んだ。
「そう言ってくれて、よかった」
ゆるゆると腕の輪を狭めてゆき、ほっそりとした身体をしっかり抱き締める。少女の纏う柔らかで温かな空気は、無条件で気持ちをほぐしてくれるものだった。雪解けをいざなう陽のごとく。
「君が僕の、春なんだ」
綾人は実感を籠めて囁いた。
――否。春だけではない。自己の空洞を満たすその存在は、四季の彩りそのもの。移り変わりまた訪れる、失っていた刻の流れ。
「だから、……ずっと――」
そこまでを口の端にのせて、綾人は瞼を閉じた。
それ以上は、言うことはできなかった。
腕の中にある、息づく季節を感じさせる少女。彼女と共に、四季を、永い日々を重ねてゆきたい、と。
見果てぬ夢と、行く手の見えない道行き。どれほど覗き込んでも、空想をひろげても、先にあるであろうものを見て、取捨選択することはできない。
動き続ける時間、信じ続ける明日。それでも、遠い約束は、今は決して叶わないものであったから。
どれほど望み続けても、歩む道が突然途切れ、断崖が足元で顎を開く――それもまた、背負う現実。そこから目をそむけて夢想にだけ浸ることは、赦されなかった。何よりも誰よりも、現実を正しく踏まえてさえ傍らにあり続ける少女に恥じることのない姿勢を保つ為にも。
交わすことのできない遥かな約束を呑み込み、綾人は一つの願いを声にした。
これくらいの未来は、きっと思いを馳せたとて増上慢と謗られはすまい。
「……暖かくなったら、外に春を見つけにいきたいね。君が僕の確かな季節だけど……もっとたくさんの、今まで気づかなかったようなものを」
「はい、必ず、きっと」
綾人が口に出せなかった言葉は察したのだろうが、無理にそれを引き戻すことはせずに、ヒトミは同意して身体を寄せる。綾人は、その時を思い描き、目を閉じたまま微笑んだ。
「桜吹雪の頃というのも、いいかな。二人で埋もれてみるのも、きっと楽しいよ」
遠い約束は守れなくても。
折々に、順繰りに。手の届く明日だけでも。
春には満開の桜の下で。夏には向日葵畑で――
季節を映す少女を、変わらぬ宝を抱き締めて。
そう願い続けることができることが、それを受け入れてもらえることが、その存在こそが――紛うことなき一番のプレゼント。