もしかしたら何でもないことで。

 不意に悟る、けれどもそれが真実。



rest time






「……あれ」
 ティーセットを載せたトレイを持ちキッチンから戻ってきた綾人は、テーブルを見やって声を洩らした。
 先ほどまではノートに向かって筆記具を走らせていたはずの少女が、いつの間にか頭を伏せ、寝息を立てていた。
 なるべく音がしないようにテーブルの端にトレイを置き、ヒトミの顔を覗き込む。いかにも睡魔に負けたといった風情の寝顔は、どこかあどけなさを残していた。
「やっぱり疲れてるのかな」
 綾人は腰を下ろし、指先でヒトミの頭を撫でた。さらさらとした髪の毛の感触が指を滑り落ちる。
 最近の休日は、参考書を抱えたヒトミがこの部屋を訪れ、受験勉強を一通りこなしてゆくことが多い。理解できない箇所があれば綾人が教えられるから、という名目になっているし、またそのような状況もあるのだが、実際のところ彼女の学力は、綾人が在籍する大学を志望校とするには既に充分なものだ。
 大半の理由は、現在の綾人が気軽に外を出歩ける状態にはなく、そうである以上、体調変化に留意しつつ共に過ごす為には室内しか選択肢がないということで。一つ年下の少女にかなり気遣わせてしまっているな、と嘆息する。
 それでも、なるべく傍にいたいと望んでくれるヒトミの気持ちが嬉しいのは事実で、己の心の身勝手さに綾人は苦笑するよりない。
 眼差しの先で、わずかに口を開いてまどろむ姿。それは出逢った頃はもとより、一年前と比較しても随分とほっそりとして、抱きすくめればすっぽりと腕におさまってしまうほどだ。けれどもその細い肩は、悩みも躊躇いも全て受け止めてなお揺るがない。
「君が、いるから――」
 呟きを残して、綾人はすくい取ったヒトミの髪の一房にそっと唇を触れさせた。
 離してから一つ息をついて、綾人は思いを手繰り寄せるように瞼を伏せた。





「……ちゃん」
 ふわり、と声が降る。
「……ミ……ん」
 ゆるゆると。ゆったりと。静かで、柔らかくて、落ち着いて。高くはない声。
 さざなみのような、でも干したての布団にうずもれた時みたいな。
 心地良い声音が、その身に降る。
「ヒトミちゃん――そろそろ起きて?」
 呼ばれている……のだろうか。ふわふわと浮かぶ意識の中で認識する。
 そして、間近の気配と軽く揺すられる感触。
 漂う意識がそこへ収束し――。
「ん……、え?」
 ヒトミはふっと目を開けて頭を起こした。
 きょろり、とわけもなく左右を見回す。見慣れた、というにはいささか足りない、けれどよく見知った調度品は、己のものではない。
 そしてその中心で、穏やかにこちらを見る姿があった。
「目が覚めた? 眠り姫」
「神城先……輩? えっと……あれ?」
 反射的に名前を呼んで、ヒトミはようやく戻ってきた認知能力の手綱を握る。そうだ、ここはマンションの綾人の部屋で、自分は今そこに来訪中だったのだ。
 テーブルの上には、開かれたノートと参考書、転がった筆記具。
「あ……。もしかしなくても、寝て、ました? 私」
「うん、ほんの少しだけね。そのまま眠らせておいてあげたかったけど、そういうわけにもいかないかなと思って」
「ごっごめんなさい! せっかく神城先輩が勉強を教えてくれてるのに……」
 完全に状況を理解して口籠もるヒトミの頬に、幾分ひやりとした掌が当てられた。淡い色合いの綾人の瞳が、翳りをたゆたわせて向けられる。
「謝らなくていいよ、殆ど僕の出番なんてないんだし。今の成績なら充分合格圏内でしょう? 僕が心配してるのは、君が頑張りすぎて疲れちゃってるんじゃないかっていうこと。無理して風邪でもひいたら元も子もないよ」
「……はい」
 ヒトミは小さく頷き、内心でだけため息をついた。夏の終わりに退院してきてからはしばらく安定していた綾人の体調だが、このところまた、あまり思わしくはない。それが気懸かりで、受験勉強にかこつけて訪ねてきていたはずなのに、逆に心配させてしまうなど、失態としか言いようがない。
 綾人はふわっと笑って手を引いた。
「もう今日の勉強はおしまい。少し冷めちゃったけど、お茶にしようか。それから気分転換に散歩にでも出よう」
 ね? と同意を求められて、ヒトミは慌てて首を振った。
「えっ、駄目ですよ! この間だってそう言ってて、先輩、具合悪くなっちゃったじゃないですか」
「でも、ヒトミちゃんだって少しは外の空気を吸いたいでしょ。僕の都合に合わせていたら、どこにも行けなくなってしまうよ?」
「――、行かなくたって、いいです」
 一瞬躊躇しかけてから、ヒトミは綾人の袖口をきゅっと握って語を継いだ。
「私は、神城先輩がいる場所にいられたら、それが一番嬉しいですから」
 告げて、まっすぐに見つめると、一瞬、どこか不思議そうな面持ちが綾人の秀麗な顔によぎった。虚を突かれた、というよりは、それはまるで、独りでいた幼い子供が不意に優しく撫でられてきょとんと相手を見上げたような、無防備にも無心にも見える表情だった。
「ヒトミちゃん?」
「私がいたいのは『ここ』なんです。私がそうしたいからそうなんです」
 綾人はきっと判っていない。それは、何度もすぐに揺らぐ部分だ。信じていないからではなく、信じているからこそ考えすぎてしまう現実の。
「……うん」
 やがて、ようやく言葉を理解したように、綾人は目を眇め、かすかに微笑んだ。泣きそうにも見える微笑は、日頃の上品で完全な、あるいは悠然としたものではなく、それゆえに素顔を垣間見せるものだった。
「そうだね、僕も……君の傍に、いたいな。こんな、……ふうに」
「だから、いるじゃないですか。今こうして」
 ヒトミはにっこりとしてみせた。引きずられるように綾人もいささか笑みを深くする。
「私が先輩の傍にいたくて、先輩も私といたいって思ってくれるなら、一石二鳥――は何か違うか、二兎を追う者は一兎をも得ず……はもっと違うよね、あれ? えーっと」
 喧嘩両成敗じゃなくて、漁夫の利でもなくて、あれれ?
 何を言いたいのか判らなくなってきて、首を捻りながら口の中でヒトミはぶつぶつと慣用句を並べあげる。
「とっ、とにかくその、一挙両得というか需要と供給というかですね、お互い一緒の気持ちなわけで」
 必死に語彙を探していると、ぷっ、というこらえた笑い声が耳に届いた。
「前言撤回。やっぱり出番は残っていそうだ。国語は一から教え直した方がよさそうだね」
「……う。す、すみません」
 おそるおそるヒトミは綾人を窺い見た。肩を震わせている綾人の顔は、はっきりとは見えなかった。
「あの……呆れ、ました?」
「全然。むしろ感心してるかな」
「感心って……」
 それは褒め言葉ではない気がする。ヒトミが反応に困っていると、聞き取れないほどの声で綾人が何か口にした。
「――、ぅに……」
「え?」
 次の瞬間、思いもかけない力でヒトミは頭を抱き寄せられていた。
「……え、わっ?」
 斜め隣からの不自然な体勢に身じろぐと、ますます綾人の腕に捕らえられる。ヒトミの肩に顔を押しつけるようにして、綾人はヒトミが袖を掴んでいたもう片方の手もずらし、しっかりと握り締めた。
「本当に、君って子は……」
 耳元で囁きに近い声音が揺れる。ヒトミは戸惑いながら手を握り返した。
「先輩……?」
 柔らかな髪質の毛先が頬に触れてくすぐったい。伝わる綾人の体温はその手と同じようにやはり少し低くて、それでも存在を弱めるものではなかった。
「このまま、いさせて? 少しだけ」
「――はい」
 小さく肯定して、ヒトミはそっと身体の力を抜いた。





  ああ、本当に。
 綾人は声に出さずひとりごちた。
 本当に、ヒトミちゃん、君という子は僕に新しい空気をくれる。いつでも一所懸命で、どこまでも素直で。そして驚くほどに勁くて。
 抱きしめた華奢な身体は温かくて、生き生きとした生命力を感じ取ることができた。
 時折窺うような気配が混じるのは、行動に困惑しているというより、綾人の体調を気遣っているのだろうか。それでもヒトミは綾人のするがまま腕の中にいた。

 君が、いるから。
 君が、いてくれるから。君がいてくれるなら。

 もう少し、自分はここにいてもいいのだろうか。ここにいられるのだろうか。望み、望まれることが叶うなら。それは傲慢と紙一重のものではあっても。
 綾人は、静かに息を吐いた。
 犠牲を強いてもなお幸福を感じる気持ちは消えなくて。もしかしたら泣きたくなるほどに。
 ごめんね、と告げれば、「何がですか?」と返事が戻ってくるのだろう。綾人の言わんとすることなど、承知の上で。
 だから、必要な言葉はこれではない。それでも自分はきっと幾度も繰り返してしまうのだけれど。
「ありがとう」
 綾人は殆ど息遣いに近く呟いた。
 たとえ全ては伝わらなくても、伝えられなくても。今必要な、それが、言葉なのだろう。
 決して器用とは言えない態度で、だが真剣に向かい合い励まし、力づけてくれる少女への。
「ありがとう、ヒトミちゃん……」
 ――あぁ、だけど。
 得意教科だと思っていたけど、やはり国語は、ちゃんと教え直した方がいいかもしれないな。
 懸命になりすぎて空回りしていた、今しがたのヒトミのつたない語彙を思い返して、綾人はくすりと笑いを洩らした。
 本当はただ、想いが嬉しかったのだけれど。
 それを口実にできるなら、それでもいい。
 こうして傍で他愛なく笑えることが――それだけで、幸福だと、ふと思った。


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