春の風が、髪を揺らす。
こんな時間がずっと続けば、いいのに。
Secret pray
「暖かくて、いいお天気になりましたね」
傍らに寄り添う少女が、空を仰ぎ見て眩しそうにする。
住まうマンションから程近い、休日の公園の敷地は、適度な活気と静けさが融合して、安らぐ空気に満ちていた。
「そうだね……よかったよ。じゃないと、僕がいくら出かけようと言っても、心配性の誰かさんに承諾してもらえなかっただろうから」
綾人は片目をつぶって笑いかけた。
「ヒトミちゃんの一言って、結構比重が大きいんだよ?」
「だって、心配なものは心配なんですもん。神城先輩、他のことには鋭いくせに自分自身にはかなり無頓着だから」
悪戯をした子供をたしなめるような眼差しで、ヒトミが隣を見やった。
「この前だって」と前科を挙げかける声に苦笑するよりなくて、綾人は返答の代わりにヒトミの手をとる。
指を組み合わせるように重ね、しっかりと握れば、恥ずかしそうに――しかし同じように握り返してくる、一回り小さな掌。伝わる体温の、確かな重み。
「じゃあ、これ以上ヒトミちゃんに余計な心配をかけないうちに、あっちの方で少し座ろうか。人もあまりいないから邪魔にはされないだろうし。……行こう」
「はい」
日ごとに緑が色濃くなっていく芝生の方へ、手をつないで二人で歩く。たったそれだけの――当たり前のことが、とても貴重に思えて、綾人はそっと目を細めた。
……どうか。
どうか、今はまだ――。
「先輩、どうしたんですか? 疲れちゃいました?」
楽しげにバスケットの中味を取り出していたヒトミは、座ってそれを眺める綾人の顔を覗き込んだ。
「……え?」
声をかけられて、綾人は反射的に目をしばたたく。
「何……?」
「何だかぼーっとしてるから……。考えてみれば、休みの日にまともに出歩くのって退院以来初めてですし、やっぱり疲れちゃいますよね。休むならあっちの木の陰の方が……、はっ、でも今だと毛虫とか落ちてくるかも。うーん、どうしよう」
「あぁ、ごめん。大丈夫、別に気分が悪いわけじゃないよ」
くるくると表情と声のトーンを変えるヒトミに、綾人は喉の奥で笑ってみせた。
「ただ、こういうのっていいな、って思って。ヒトミちゃんと一緒にいると、それだけで彩度と明度が一段階上がる気がする」
「彩度と明度、って、それ……?」
「要するに、君がいると世界がひときわ輝いて見える、ってこと……かな?」
微笑んで答える綾人と、まじまじと目を見開くヒトミの間に、四半瞬の間が降りた。
「……っ!」
間を破るように、ヒトミが、息を詰めて顔を赤らめ、ぱたぱたと手を振る。
綾人は軽く首を傾げた。指先で、染まった頬をくすぐる。
「どうしたの? ヒトミちゃん」
「せせ、先輩、さらっとそんなこと言うの反則ですよ!」
「あれ、何か変だったかな。僕の本心なんだけど」
「もう、いいです。きっと自覚ないんですよね……」
素で甘い台詞吐くんだからこの人はもう、と小声で続く、諦めに近い声音に、綾人は更に首の角度を深くした。
「もしかして照れてるの? でも、本当のことだよ」
「ほんととか嘘とかそういう次元じゃなくてですね」
「いいから、聞いて?」
頬をなぞっていた指を更に伸ばし、耳元へ、そしてうなじへと手をかける。ヒトミが首をすくめたところで止めて、綾人はまっすぐに明るい色の瞳を見据えた。
「君がいるから――君がいて初めて、この世界には色があり明るさがあり時が刻まれる。それらが存在するのだと判る。変わらない日常を信じることができる。このままでいたいと思う。僕の内で薄れていた何もかもが、君の中にあるんだ」
「神城先輩……」
恥ずかしがる様子は消え、ヒトミが戸惑いがちに目線を受け止める。わずかに開かれた桜色の唇は、何か言いたげにも見えたが、そこから語彙が紡がれることはなかった。
「だから……もっと、君といたくなる。君を見て、君に触れて、そこに君が――そして、……僕、が……存在しているんだって、確かめたくなる」
綾人は小さく笑みを零した。それは穏やかで、しかし自嘲的でもあった。
「すごく、わがままでしょ? ヒトミちゃんの都合なんて、まるきり考慮してない」
そろそろと腕を引き、綾人はふっと視線を外して目を伏せた。細い首筋と後れ毛の感触だけがその手に残る。
「それなのに僕は、どれだけいてもまだ足りないなんて思っ……、ヒトミちゃん?」
ことり、と。突然、綾人の肩口と胸元に、重みがかかった。綾人のシャツを掴んだヒトミが額を押しつけるように頭を預けてきたのだと認識するのには、数秒の時間が必要だった。
「………、たら……」
かすかな呟きが肩口から洩れる。聞き取ろうと綾人が顔を動かすと、柔らかな髪に当たった。
「何? ヒトミちゃん、聞こえない」
「先輩がわがままだっていうんだったら、世界中でわがままじゃない人なんて一人もいなくなっちゃいますよ」
今度ははっきりと届けられた言葉に、綾人は軽く息を呑む。その声は、笑っているような、泣いているような、そして何よりも優しい響きを帯びていた。
「そう、かな」
「そうです。私が言うんだから、絶対そうなんです」
「……うん……」
綾人は短く頷き、再び腕を伸ばした。今度は少女の背に。
出会った頃とは比べようもない華奢な背は、けれど確かな存在感を持って腕の中にある。強く抱き締めても、ヒトミは抗わなかった。
「不思議だね。君が言うと、どんなことも肯定される気がする」
肩に顔を埋めるヒトミの頭に、すり寄せるように頬をくっつけて、綾人は呼吸二つ分の間、目を閉じた。
「やっぱり、君だけが……僕の――」
その先は口には出さず、静かに噛み締める。
彼方まで導く暖かな灯り。それはそこにあって、常に一歩先を照らし、示してくれる。どれほどの迷い道の中でも。
――それならば、話さなくてはならないことがある。
「全然、先輩はわがままなんかじゃないから……、やりすぎかなって思うくらいできっとちょうどなんだから、もっと好きなこと言っていいんですよ」
「本当に?」
吐息交じりに問うと、ぴくんと少女の肩が揺れた。
「私が、叶えられることなら」
「じゃあ……またねだってみようかな。いい?」
「ねだってって、何を……」
腕の中で抱きすくめられていたヒトミが、訝しそうに身じろぐ。綾人はそっと囁いた。
「膝枕。君の。今からしてほしいな」
「膝ま――、て、神城先輩、もしかしてまた具合悪いんじゃ……っていうか、今ここでですか?」
間髪入れず、慌てた声が耳元で響いた。そしてそこで、現在の体勢に思い当たった様子でヒトミが顔を上げる。感情のままで動いていたらしい。きょろきょろと左右を見回す所作がどこかほほえましくて可愛らしかった。
腕の束縛はそのままで、綾人は至近距離でヒトミを見つめた。
「これは、やりすぎなわがまま?」
「……じゃ、ないです……けど。あ、でもそうだ、ほらお弁当出しかけで」
「だったら、してくれる? 少しの間だけでいいから。せっかくの君のお弁当だけど、あとちょっとだけ出番は待ってもらって」
「は……はい……」
ヒトミが戸惑いつつ首肯するのを見てから、綾人は腕を解いた。もじもじしながら姿勢をかえる少女に、愛おしさを感じる。
「ど、どうぞ?」
「ありがとう。……ごめんね?」
「謝られると、余計、恥ずかしいことをしてる気がしますから、言わないで下さい……」
綾人はくすくすと笑って、ヒトミの膝に頭を載せた。しばらくして、ためらいがちに細い指先が綾人の前髪に下りてくる。
「ほんとに、大丈夫ですか? 苦しいのに我慢してるなんて、なしですよ?」
「そういうわけじゃないよ。ただ単に、こうして話したいなって思っただけだから」
俯いて見下ろしてくるヒトミと、仰向けで見上げる綾人の目が合った。
「高校時代にも、こうしてもらったよね。夏の旅行で」
「そうですね。あの時はどうしようかと思いました。先輩、ものすごく具合悪そうだったし……」
当時を思い出しているのだろう、ヒトミの表情が困ったような微笑になる。綾人は伸ばされた手を軽く握った。
「でも、そのおかげで今また『同じお願い』ができるんだから、僕としてはまんざらでもないかな」
「またそういう……」
恥ずかしいことを、と続けかけるヒトミを制し、綾人は眼差しを真剣なものに変えた。
「その夜、二人で話したのも覚えてる? 神様とか幽霊とか」
「はい、もちろん。あの時は神城先輩の事情なんて知らなかったわけだけど……何だか淋しいことを言うんだなって、ちょっと思ってました。結局最後は、自分でも何を言ってるんだかわかんなくなっちゃったし、ごまかされちゃった気もしますけど」
「そう……」
綾人は一旦目を閉じて、再び押し開けた。
「実は、あの時と今では、少し見解が違ってきてるんだ。今更敬虔なクリスチャンになる気はないけど、目に見えようが見えなかろうが、神様にはいてほしいし、幽霊だって出てきたってかまわない。今は、そう思うこともあるよ……時々、だけどね」
「どうして……ですか?」
「だって」
握った手に、幾分力を籠める。そうすることで、いくらかでも光の確かさを感じたかった。
「神様がいなかったら、もしもの事態の時に、もっと長く君といられたらいいのにって『神頼み』することはできないし、幽霊の存在を肯定しなくちゃ、その先、君の前に化けて出ることもできないでしょう? ……だからだよ」
「………。ひょっとして、それを言いたくて膝枕なんて持ち出したんですか?」
一瞬黙り込んで綾人の告白を聞いていたヒトミの面持ちに、怒りの揺らぎが仄見える。
「だとしたら私、二度とこんなことしませんよ。先輩がそんなことを言うつもりだったのなら」
「半分は、ね。後の半分は、ほんとにこうやっていたかっただけだけど」
「せん……っ」
「最後まで聞いて。お願いだから」
声を荒げかけるヒトミを、綾人は素早く押し留めた。鼻白みつつもヒトミは口を閉ざす。
綾人は少女の様子に、微かに笑った。静かな笑みは、諦観した者のそれに相違なかった。
「ヒトミちゃんが怒るのは、判ってる。でもね、僕の内からこの考えを完全に消すことは、今の僕にはできない。『死を迎える自分』という前提条件を消去することはね」
「………」
「それでも。君がいて、僕を導いてくれるなら。出口の見つからない迷路の中でも、君という灯りがそこを照らし出してくれるなら。僕は――後戻りせずにいられると思う。幾度も立ち止まってしまうだろうけど、そしてそれを失くすことはできないと自覚しているけど、それをなるべく気に留めずにいるだけの力を得ることができる。それもまた、事実なんだ。全て……君という、特別な存在がいるから」
そこまで喋って、綾人はわずかに眉を寄せて息をついた。一度に話すのは、やはりまだ少し疲れる。
怒っていたはずなのに、途端に心配そうな表情になる少女に、綾人は必要ないという意思表示で小さく首を振った。膝に頭を預けたままでは、成功しているとは言いがたかったかもしれないが。
呼吸をととのえ、再度綾人は口を開いた。
「だから……信じてもいなかった死後や神なんていうものに、譲歩する気になったし、それゆえに変な思考に囚われるようになったわけだけど。同時に、死んで君の前に現れるというのは嫌だなって思うから。ずっと、じかに触れていられる時間を増やしたいから。これからも……立ち止まってしまうその時も、僕の、希望という名の灯りで――いてほしい。きっと僕は、何度も同じことを訊いてしまう。そしてそのたびに君に叱られて、そのたびに君の答えを聞かなければ安心できない」
綾人は握ったままのヒトミの手を、自分の頬に押し当てた。あたたかいようで、それでいてひんやりと気持ちを静めてくれるようで、心地いい。
「これは結局、わがまま?」
「もう……先輩ってば……」
ヒトミの表情が、くしゃ、と歪む。
「さっき言ったじゃないですか……先輩がわがままなら、わがままじゃない人なんていないって」
泣き出す寸前の表情のまま、同じだけの度合いで微笑んで、ヒトミは綾人を見下ろした。それは、ひどく静謐で優しい笑みだった。
「……ありがとう」
殆ど声ではない息遣いで、綾人は呟いた。
ゆっくりと起き上がり、先ほどと同じようにヒトミの背に腕を回し、しっかり抱き寄せる。今度はヒトミも抱きつき返してきた。
「ああ、やっぱり死後の世界より、こうして抱き締めていられる方がいいね」
「当たり前じゃないですか……半分透けて、すかすかの神城先輩なんて、見たくないですもん、私」
「そっか。じゃあ、ほんと頑張らないとね」
それが、口で言うほど平坦な道のりではないことは、百も承知だけれど。何かを望むことが己に赦されるのなら、多少でも後押しにはなるのだろう。
綾人はしばらくじっとヒトミを抱き締めてから、不意に悪戯めいた面持ちを掠めさせた。
「ところで、ヒトミちゃん。わがままじゃないわがままついでに、もう一つ言っても、いい?」
「何ですか?」
「ずっと、言おうと思ってたんだけど。僕は、いつまで『神城先輩』なの?」
「えっ!」
綾人の言わんとしたことは誤解なく伝わったらしい。その腕の中で、ヒトミはまたもやあせった様子になる。
「や、だって、ほら、出会った時から先輩ですし! 今だって同じ大学で先輩後輩だしっ」
「……その理屈で言うと、卒業したら、先輩とは呼ばなくなるんだよね」
くすりと笑って、それから、綾人は構成する表情の質を変化させた。
「それとも……、僕がおじいさんになっても、まだ先輩って呼び続けるつもり?」
「……、先ぱ」
そこに含まれる意味に、ヒトミが顔を離し、はっきりと綾人を見ようとする。
「なんてね。ほら、結構前向きでしょ?」
腕の力を緩めることなく、綾人は語を次ぐ。
「先の目標があるって、いいね。もっとも、それだけじゃまだまだ満足なんてできないけど」
「……そう、ですよ。それくらいで心残りをなくされたら、私だって……困ります」
少女の声にわずかにビブラートがかかり、綾人の上着の背中の生地がきゅっと掴まれた。綾人は片腕の位置をずらし、ヒトミを頭ごと抱きすくめた。
「なくすわけ、ないじゃない。実は独占欲強いんだよ、僕。……ヒトミちゃんに対してだけは、ね」
――彼女を喪うことなど、決して許せないくらいに。
「まあでも、今は神城先輩でいいか。遅くてもヒトミちゃんが大学卒業、早ければそれまでに気が変わってくれるかもしれないわけだし。気長に待つよ」
「そ……そのうち、前向きに善処します」
「うん、期待してる」
囁いて、綾人は名残を惜しみつつ腕を下ろした。最後に少女の髪に指を絡めて。
「じゃ、そろそろ、今度こそお弁当にしようか? いい加減、周りから注目も浴びてるみたいだしね」
「そうですね、お弁当――…って、きゃあっ!」
口元を手で覆って、ヒトミが視線をめぐらせる。綾人に流されて、ここが日曜日の公園であることを失念しかけていたらしかった。
「そんなに恥ずかしい? もっとも、そうやって照れる君も、僕は好きだけど。可愛くて」
「……ですから先輩、真顔でそういう台詞はやめて下さいって」
もごもごと口の中で語を転がしながら、ヒトミが中断されていた昼食準備を再開する。耳まで赤くしてセッティングする様は、客観的にも至極可愛らしく映るものであるはずだった。
「嫌? 事実なのに。……こんなに可愛いヒトミちゃんを見られるなら、君が言うところの『自覚なしに素で吐く甘い台詞』とやらも、小道具に使ってみるのも悪くないかもしれないね」
冗談めかして綾人は微笑みを向けた。
「もっとたくさん、僕だけの君を見ていたいから」
「だから……そういうところが、自覚ないんですってばぁ……」
消え入りそうに呟くヒトミの、染まった耳朶に、上半身を傾けて綾人はそっと口づけた。
掠めるように、しかし最大限の愛おしさと共に。そして、たゆたう微かな痛みと共に。
「本当の、気持ちだよ?」
ささやかで、けれども代えるもののない時間。満ちる光の中の安らぎ。
それを、幸福と呼ぶのならば。
さりげない日々の中に、それはいつでもあって。
だから。
だから、どうか――…