千里花


「すっかり暗くなっちゃったね。遅くなってごめん」
 街灯が照らし出す道を歩きながら、綾人は隣を歩くヒトミに声をかけた。ヒトミはにこりと破顔して斜め上を見やる。
「平気です。映画、面白かったし、ご飯もおいしかったし」
「でも、鷹士さん、心配してるんじゃないかな。夜までに送り届けますって約束して出てきてるのに……帰ったら謝らないと」
 綾人は薄暗がりの中、ヒトミの顔を覗き込むようにして、悪戯めかした口調で続けた。
「だって、鷹士さんが臍を曲げたら、こうやってヒトミちゃんと『お付き合い』させてもらえなくなるしね?」
「も、もう……先輩ってば」
 ヒトミは、告げられる言葉に首を縮めた。自分たちの関係はまさにそれ以外の何でもないのだが、相手からはっきり口に出されるとどうしても照れてしまう。口籠もるヒトミに、綾人は首を傾げた。
「あれ? 僕と付き合うの、迷惑だった?」
「……答え、判っててわざと言ってませんか?」
「ふふ、実はかなりね」
 楽しそうな笑い声がくすくすと降ってくる。繕ったものではなく綾人がこんな風におどけてみせるのは、最近なかったことだ。
「でも、判ってるつもりでも聞きたいのはほんとだよ。だから教えてくれないかな?」
 眼差しが幾分真剣なものになったのを感じて、ヒトミは深呼吸した。
「め、迷惑だったら、こうして一緒に歩いてません」
「……よかった」
 知っているはずの返答なのに、安心した様子で綾人は微笑む。そんな些細な表情すらも心拍数を跳ね上げさせるのには充分なもので、ヒトミは慌てて問いを向けた。
「そっそれより。今日、随分連れ回しちゃった気がするんですけど……本当に大丈夫ですか?」
 ショッピングモールを見て回るのに夢中になって、綾人を疲れさせてしまったのではないだろうか。綾人はいつもヒトミを優先するから、具合が悪くてもよほどのことでない限り隠そうとしてしまうことがある。
「うん、無理はしてないよ。……ほら」
 綾人は、すくい上げるようにヒトミの手をとった。しばしば体温を失って冷え切っていることのある綾人の手は、今は優しい温かさを湛えている。
「ね? 大丈夫でしょ?」
「は……はい」
 しっかりと手を握られて、ヒトミは今度こそ俯いた。今が夜でよかったと思う。赤くなった顔は、街灯の真下でもなければ判らないだろう。むしろ、速まった鼓動が掌から伝わってばれてしまうのではないかという方が心配だった。
 手をつないでいくらも歩かないうち、
「あれ……。何だか、いい匂いがしませんか? 花の……」
 ヒトミはふわりと届いた香りにきょときょととまばたきした。
 以前ならば最初に察知する『いい匂い』は食べ物だっただろうなと自分のことながら思い至って、内心苦笑する。己の変化は、全て今隣にいる存在によってもたらされたものだ。
「ん? ああ……沈丁花だね。そうか、そういう時季なんだ」
「先輩、沈丁花って好きですか?」
 しみじみとした響きが綾人の声に宿ったのに気づいて、ヒトミは訊ねた。
「そうだね……結構好きかな。これから春だっていう感じがするから。目で見る春は、桜に勝るものはないけど、沈丁花は一足先に香りで示してくれるよね」
 綾人はわずかに目を伏せて微笑した。
「今年も、春を迎えたんだ、って。こんな夜でも……あるいは窓を開けていれば部屋の中にいたって知ることができる」
 綾人の微妙な表情は、夜道ではよく見えなかったが、容易に想像はついた。そしてそこに含まれる意味のいくらかも。
「――探しましょう!」
 考えるより前に、ヒトミは声を上げていた。
「え……、ヒトミちゃん?」
「沈丁花。どこか近くに生えてるんですよね、探してみませんか?」
 唐突な提案に、綾人は足を止めた。戸惑ったようにまばたきする。街灯の青白い光が、希薄な影をアスファルトの上に落としていた。
「あ……急に変なこと言ってごめんなさい。探せたら楽しいかなって……その」
 もぞもぞとヒトミは口ごもった。思いつきで口に出しただけに、理由を問われたら返答しようがない。ただ、必要な気がしたのだ。香るささやかな春の兆しを、手の届く距離で一緒に見たかった。
「……うん、いいよ」
 しばらくの間の後、綾人がふと表情を緩める。
 ヒトミはほっと息をついて、こくりと頷いた。
「はいっ」
「でも、あまり脇道に入るのは駄目だよ? どうやって探そうか?」
「ここで香るんだから、それをたどれば大体の場所が判らないかなって思うんですけど。……私、鼻には結構自信あるんです」
 変なところで胸を張ってから、ヒトミは上目遣いに綾人を見た。夜目にも色の白い肌がおぼろげに浮いて見える。
「あ、ひょっとして『犬みたい』って思ってません?」
「考えてないよ、そんなこと」
「……本当ですか?」
「うーん……ほんとはちょっとだけ」
「うぅーっ」
 おかしそうに肩を震わせる綾人に、ヒトミは頬を膨らませた。すぐに、同じように笑い出す。他愛もない軽口を交わせることが、それだけで嬉しかった。やはり今日は綾人の体調はかなりいいのだろう。そうでなければこんな提案もできなかったわけだが、ヒトミには我が事以上の喜びになる。
「じゃあ、ヒトミちゃんの優秀な鼻を信じてついていこうかな。案内してくれるんだよね」
「はい、もちろん!」
 ヒトミはつないだ手の力を強めた。恥ずかしさはいつしか消え、触れ合う掌の温かさが心地いい。
「えーと、こっちの方です」
 心もち綾人の手を引くようにして、ヒトミは再び歩き出した。



  ヒトミの半歩後ろを歩きながら、綾人は喚起される記憶をたどる。
 初めての記憶は、うんと幼い頃。
 暖かな日差しの中の、眩い春。決してくどくはない香りの中、はしゃぐ声をあげて。
 あの頃は、それが当然のものだと思っていた。自然に季節は巡り、眺め見送り、翌年になればまた同じ顔で出会うものであるのだと。無論当時にそこまで考えたわけもないが、認識としてはそういうことだったのだと思う。
 それが人間の持つ虚傲でしかないと知らされたのは、もう六年以上も前のことだ。
 ベッドに縛りつけられて、見えるものは窓枠の形に切り取られた空だけで。それでも風に乗って届けられた香りに、見えもしないのに瞬間的に花が思い浮かんだ。当たり前のように見ていた頃は意識もしなかったものであるのに、浮かぶ映像は鮮やかで。
 いま咲きほころぶ花、いまそれを知覚する己。それがどれほど危うい土台の上に成り立っていたものであるのか、初めて知った気がした。
 あの時、もしかしたら自分は驚愕していたのかもしれない。その貴重さに。砂粒一つほどの差異で比重の変わる偶然を紡いでそこに在ることに。
 二度と得ることができないかもしれない、移りゆく季節。奇蹟のような偶然は、今また新たに訪れを告げている。
 等間隔に設置された街灯の光が、微風にさらさらと流れるヒトミの髪の上で跳ねる。それを視界に収めて、綾人は小さく笑った。
 気配に気づいたのか、ヒトミが振り仰いだ。
「どうしたんですか? 神城先輩」
「ん……ヒトミちゃんって、天使みたいだなって思って」
「え、わ、心の準備をしてないから、急にそういうの、なしですっ!」
 自由な左手をぱたぱたと振ってヒトミが慌てだす。
 彼女はいつでも綾人の言葉の一つ一つに反応する。世辞でも何でもなく事実なのだから、もっと受け止め慣れてもよさそうなものであるのだが。
 もっとも、いちいち照れる様もまた可愛らしいから、このままでもいいのかもしれない。
「天使じゃなければ、春を導く妖精でもいいんだけど?」
「っ……」
 絶句してからヒトミが口元に手を当てる。きっと耳まで真っ赤になっているのだろうが、夜道ではよく判別できないのが残念だな、と暢気な思考を綾人はよぎらせた。
「だって、僕を花のところまで連れていってくれるんでしょう?」
 綾人はつないだ手を強く握り、促すように笑みを向けた。
「それなら、僕にとってはやっぱりそうだよ。……いつでも、ね」
 数瞬後、同じように手が握り返されて、任せて下さい、と澄んだ柔らかい声が微かに揺れて届いた。



「――あった!」
 ヒトミは植え込みの前で立ち止まった。
 数本の沈丁花の木が、小さな花を鞠のように咲かせていた。がくの外側が紫色のものと、全部白いものとがある。あまり間近で香りを吸うとかえって悪臭に感じられるから、こうして前に立つくらいで留めておいた方がいい。
「ほら、見つけましたよ」
 ヒトミは隣に立つ綾人を見て、にっこりしてみせた。綾人は、指先で白い花に触れた。
「――Daphne odora」
「はい?」
「沈丁花の学名だよ。Daphneは、ギリシア神話の女神。ヒトミちゃんも読んだことはあるんじゃないかな、アポロンの求愛から逃れようとして月桂樹に姿を変えたダフネの話。神話から転じて月桂樹を指してる。odoraは芳香とかそういうことだから、香る月桂樹ってところだね。似てるからつけられたようだけど」
 さらりと説明する綾人に、ヒトミは目を丸くした。
「へーぇ……。やっぱり先輩ってすごい知識ですね」
「たまたま、暇だったときについでで調べただけだよ」
 苦笑気味に答えて、綾人は指を引く。
「ヒトミちゃんも……いつかダフネのように逃げてしまうのかな」
「先輩……?」
 殆ど口の中で呟かれた言葉はヒトミにはよく聞こえなかったが、どこか翳った響きを感じて首をかしげた。
「……ごめん、何でもないよ」
 ふっと微笑んで、綾人はヒトミの髪をそっと撫でた。
 ほんの一瞬、掠めるように顔が近づく。
「……ひゃっ?」
 ヒトミは裏返った声をあげて、大きく目を見開いた。悪戯っぽい笑みを刻む綾人と目線が合って、逸らせなくなる。鼻の頭にちょこんとキスされたのだと認識できたのは、それからだった。
「ふふっ、ヒトミちゃんの優秀な鼻に敬意を表して、ね」
「いっ……いきなりは反則です」
「いきなりじゃなければ、いいの?」
 綾人の声のトーンが囁きに近いものになる。目を逸らせないまま見つめるヒトミの頬を掌でなぞって、綾人はそのまま手を細い首の後ろに滑らせた。
 下ろした髪を綾人の指が梳くのが判る。冗談めかした笑みは消え、真顔で向けられる双眸が冴えた月光のようだ。
「僕に気を遣って花を探してくれたんでしょう? ありがとう……ごめんね」
「……どうして、謝るんですか?」
 ヒトミは跳ねて暴れそうな心臓の鼓動を自覚しながら、あくまでじっと秀麗な顔を見返す。
「私は、そうしたかったからしただけです。先輩と一緒に……見つけたかったから。こうやって、神城先輩と歩いて、探して、見て――一緒にいたかったから。……それじゃ、駄目ですか?」
 突き詰めればそういうことなのだと、ヒトミは話しながら思った。
 理由なんてどうでもいい。ただ、傍にいたいと感じた。今始まる春を共に。それだけのことなのだ。
 綾人の眼差しに、困惑の色がたゆたう。それは無論、薄暗がりでは、深いところまでは見えなかったけれど、察知することは可能だった。
「………。そうだね」
 ふっと、張り詰めていたものを消して、綾人は穏やかな気配を身に纏った。それは作ったものではなく、自然にわき上がるものだった。
「僕も、ヒトミちゃんと一緒に探したかったから……嬉しいよ」
 髪を撫でる手が気持ちいい。ヒトミはあたたかな感触に目を細めた。
 綾人に、髪の毛に触れられるのは好きだ。自分がまだダイエットを始めたばかりだった頃、夜のマンションの屋上で励まされた時からずっと、その手は優しさをくれる。願わくば、自分の手もまた、綾人に何かをもたらすことができればいいのに。どんな小さな……芽吹きのようなものであっても。
「キス……してもいい? 今度は、こうやって傍にいてくれる、君自身に」
 囁きが耳を掠めて、そのこと自体にヒトミは跳ね上がる心音を制御できなくなる。
 断りを入れればいいんだよね? と律儀に確認する綾人は、不思議と無防備な面持ちをしていた。
「……はい」
 小声でヒトミは肯定を返した。改めて問われる方がむしろ恥ずかしいかもしれないと頭の片隅で考えるのと時を同じくして、整った顔が寄せられる。ヒトミは促されるように瞼を閉じた。
「――ん……」
 滑らせるように背中に回された手から伝わるものと同質のぬくもりが、唇に触れる。深くはなく、ただ重ね、確かめるだけの、あるいはついばむだけの。綾人は決してそれ以上を求めない。
 傍らで満開を迎える沈丁花の香りが、ふわりと立ち上って感じられた。
「沈丁花の別名……」
 唇が離れ、耳元で綾人の声が聞こえる。ヒトミは抱き寄せられたまま薄目を開けた。
「え?」
「思い出した。漢名だと『瑞香』っていうんだよ。縁起がいい香り、ということなんだって」
 綾人は静かに微笑んだ。優しいあたたかさをそのままに。
「何だか今、すごく幸せな気がするから……当たっているかもね」
「じゃあ……」
 ヒトミは綾人の服の背を掴んで、同じように笑った。
「これからもっと、いいことがあるかもしれませんね。……二人で、見つけたんですもん」
 ――瑞兆と名づけられた花を。
 ヒトミの言葉に、綾人は瞬間意外そうに目を見張り、それからぎゅっとヒトミを抱きしめた。離れることを許さない強さで。
「もっと幸せなこと、か。……うん、いいね」
 どこか泣いているようにも聞こえる声音で呟いて、綾人は再びヒトミに唇を重ねた。
 それは、腕に籠められた力とは正反対の、どこまでも優しいキスだった。逆らわずに、ヒトミはまた目を閉じる。そうすると、より存在を感じられる気がした。
 春の夜気とない交ぜになって、その口づけは、やはり花の匂いがした。



…そしてちっとも帰ってこない二人に鷹士お兄ちゃんはやきもき。マンションを飛び出すまであと五分(ありそうな話)


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