ふわり、と舞い降りる手。
  くすぐる髪先。



  ――共に在るそのひと時が、今のすべて。




Wish






  ひんやりとしたものが額に触れる感覚に、綾人はわずかに瞼を浮かせた。
「……、?」
 身体が重くて、少し息苦しい。ああ、あまり調子はよくないな、と、もうそうするようになって何年来かになる、意識の覚醒の最初に確認する自己の体調判断を下してから、ようやくひとつまばたきをする。
 そこに、静かな声が降ってきた。
「よかった。気がつきましたね。あ……それとも起こしてしまったのかも」
 幾分霞んだ視界の中に、ひざまずいて見下ろしてくる少女の姿が映った。
「ヒトミ、ちゃん?」
 名前を呼ぶと、普段はポニーテールにしていることが多い髪を今日は下ろした少女が、こくりと頷いた。
 一緒に見えるのは、見慣れた天井と調度品。マンションの綾人の部屋だ。
「あれ……僕――」
 呟きながら腕に力をかけて身を起こそうとした途端、ヒトミの気配が慌てたものになる。
「あっ、まだ起きちゃ駄目ですよ、神城先輩!」
 肩を押され、綾人は再び枕に頭を沈めた。ぼんやりとして、まだ状況がつかめない。
 綾人は訝しげにヒトミを見返して、髪を軽くかき上げた。そしてそこで、額に乗せられたままのタオルの存在を知る。先ほどの冷たい感触はこれだったのだろうか。
「僕、一体……?」
「覚えてないですか?」
 ぱちりと目をしばたたいてヒトミが小首をかしげる。
「チャイムを鳴らしても返事がないし、でも鍵が開いていたから、中に入ったら、先輩、壁にもたれて気を失ってたんです。私じゃベッドまで連れていけなくて、急いでお兄ちゃんを呼びに行って運んでもらったんですけど」
「そう、なんだ? あぁ……そういえば」
 次第に記憶が蘇ってくる。今日は彼女と公園に出かけるはずで、準備していたのだった。そこで急に眩暈に襲われて、抗しきれずに壁にすがって床に膝をついたところまでは、覚えている。結局そのまま意識を手放してしまったというわけか。
「すごく……びっくりしました」
 小声で呟くようにしてから、きゅ、と一旦引き結んだ唇をヒトミが開く。
「少し熱があるみたい。もうっ、まだ退院したばかりなのに、夜更かしばかりしてるからですよ? 知ってるんですからね」
 たしなめるような口調に、綾人は微苦笑をよぎらせた。
「うん、ごめんね……?」
 囁くと、口調に比して穏やかなヒトミの眼差しが幾分たじろいだ。綾人としては特に意図しているわけではないのだが、彼の囁き声には、どうやらヒトミに対して、様々に有効な魔力が籠もるらしい。
「べ……別に、これから気をつけてくれれば、いいん……です」
 口ごもるヒトミに、やっと完全に焦点が合った目を向ける。
 うろたえる姿も、彼女は可愛らしいと思う。
 安心させる為に笑いかけようとして、綾人はふと少女の違和感に気づいた。ほんの些細なものではあったけれど、それで充分だった。
 前髪と、下ろしたサイドの髪先が、少し濡れている。なぜなのか、など、解答は考えるまでもなくそこにあった。その前提でじっと見つめれば、わずかに名残も感じられる。
 ――泣かせてしまったのだ。繰言も言わず、いつも傍らで、春の日差しと同じ暖かさを与えてくれる少女を。そしてそのことを悟られまいと彼女は必死に痕跡を隠そうとしたのだ。
 この事実に、綾人は心の内で己に罵りを向けるよりない。小さく息をついて彼は笑みを消した。
「……本当に、ごめん。また、心配かけて」
「神城先ぱ……い?」
 相手の声の調子が変わったのを感じたのだろう、ヒトミは窺うように綾人の顔を覗き込んできた。
 綾人は、ゆるゆると腕を持ち上げて、ヒトミの前髪に指先を触れさせた。理由を直接指摘することはせずに、見えるものだけを告げる。
「ヒトミちゃん、僕が目を覚ます前に、慌てて顔を洗ったでしょう? 髪……まだ濡れてる」
「……っ」
 びくり、と細い肩が跳ねて、ヒトミがとっさに目をそらす。綾人の言葉に動揺してか、瞬間息を詰めるのが判った。
「え、っと、こ……これは、その――」
「だから――謝ってる」
 自分のせいで泣かせたことを。
 声に出さない部分の綾人の言葉は、それでもそのまま伝わるものだった。
 黙ったまま、ヒトミは小さく首を振った。もういい、と言いたげに。あるいは、自分こそが謝罪すべき存在なのだと訴えたげに。
 ややあって、目線を戻してふわりとヒトミは微笑んだ。
「その話は、またにしましょう? 今、キッチンを借りてお粥作ってるんです。それなら食べられるかなと思って。というか、食べなきゃ駄目ですよ? もうすぐできるから持ってきますね。待ってて下さい」
「……ありがとう、いつも優しいね、君は」
 言い置いて立ち上がるヒトミに、追及は控えて綾人は頷いて見せた。
 キッチンへ去る後ろ姿を見送ってから、浅く息を吐いて、掌で双眸を覆う。重い胸苦しさは、体調のせいだけなのかどうか、自身でも判然としなかった。




 ――見つけた時には、心臓が止まるかと思った。
 焦げつかないように鍋の中身を軽くかき回しながら、ヒトミは思い返す。
 ドアを開けたその先、玄関近くの壁に寄りかかるようにして意識を失くしている綾人を発見した時には。
 駆け寄って肩を揺すっても名前を呼んでも瞼が開くことはなくて。額に触れると熱があるのに、血の気がなくて顔色が蒼白で。半ば投げ出された腕をとって手を握るとひどく冷たくて。
 初めて見る姿ではなかったからパニック状態に陥ることはなかったけれど、身体の震えを止めることはヒトミにはできなかった。
 ヒトミがまもなく高校を卒業し、綾人と同じ大学へと進むことが決まっている、まだ早い春。年が明ける前から体調を崩ししばしば倒れるようになっていた綾人が入院したのは、正月三が日も過ぎない時だった。ようやく退院したのが十日前。ここ数日の春本番がきたかのような陽気に、軽い散歩くらいなら行けるのではないかと話したのはつい昨日。
 もっと注意を払っておくべきだった。退院した途端に、夜遅く、下手したら明け方まで明かりが灯っている――後者はヒトミ自身で確認したわけではなく、原稿で徹夜明けした頭をしゃんとさせようと外に出たら見かけた、という幼馴染の透の話だが――綾人の部屋とその住人に。
 いつでも『僕なら大丈夫だから』と微笑みを浮かべて、自分が時に無理をしている事実すら本人は全く気づいていないのではないかと思えるほどの、優しすぎる存在。
 一番気をつけていなくてはいけなかったのに、綾人が退院したということに浮かれて、再びの変調を見過ごしていた。その現状に、ヒトミは自己嫌悪を覚える。
「ほんと、駄目だなぁ、私……」
 ぐるり、ともう一度おたまを回して火を止め、鍋と椀を盆に載せる。それからヒトミは大きく息をついた。
「それにしても、神城先輩ってば、鋭すぎだわ」
 ちゃんと隠せたと思っていたのに。泣いてしまったことを。何度も顔を洗って、深呼吸して、鏡も見て確かめて、これなら何とかなると思ったのに。髪先が濡れているというだけでばれてしまうなんて。
 元々女の子に対して平等に優しいフェミニストだったから、機微には目端がきくのだとしても。
 綾人は、あまりに他人の心の裏面に聡すぎる。知らないままでいいことまで、察してしまう。そのことで、時として自分の方が傷ついていることには思いも馳せずに。彼が唯一不得意なのは、自己への認識だ。いつだって――他者に気を遣って己のことなど後回しにするのだから。
 箸とスプーンのどちらがいいか迷って結局どちらも取り出すと、ヒトミはそろそろと盆を持ち上げ、歩き出した。




「もう、いらないんですか?」
「うん、ごちそうさま。これ以上は、今はいいよ」
「全然食べてない気がするけど……。じゃあ、後でおなかがすくようだったらあたため直しますね」
 椀にすくったうちの半分も減らさずに箸を置く綾人に、しかし半ばは予測していたのかさして取り沙汰することなく、ヒトミはサイドテーブルに膳を戻す。
 重ねたクッションにもたれて半身を起こした状態で、綾人はヒトミを眺めやっていた。
「ねえ、ヒトミちゃん」
「はい?」
「話の続きを、しよう」
 綾人の言葉に、ヒトミはきょとりと大きく目を開いた。
「続き、って?」
「またにしましょうって、さっき君が言ったんじゃない。だから、その続きだよ。――君を泣かせた」
「だからそれは……」
 ヒトミは困ったように顔を伏せたが、綾人の真剣な声音に抗えなかったらしく、おずおずと目線を上げた。綾人はそれをじっと見返す。
「情けないよね……僕は。本当は君にはいつも心から笑っていてほしいのに、そうできるくらい強くありたいのに。不安にさせて、こっそり泣かせて。……好きな女の子の気持ち一つも守ってあげられない」
「そんな、こと」
 言いさしたヒトミを軽く首を振って制し、綾人は重要な問いを向ける。それはこの一年間、自問し続け、だが口に出すことのなかったものだった。
「後悔、してる? 僕と共に在ること――明日にも消えてしまうかもしれない人間に付き合わされていること」
「先輩? 何を……」
「もしもそうなら、僕は」
「っ、……先輩!!」
 殆ど悲鳴のようにヒトミが叫んだ。次いで、言葉以上に彼女の感情を映し出す澄んだ瞳で綾人をねめつける。
「今度そんなこと言ったら、本気で怒りますよ、私」
「ヒトミちゃ――、」
「誰が、付き合わされてるなんて言ったんですか。私は、私の意志で神城先輩の傍にいたいって思ったんです。ずっと、そう思ってそのとおりにしてるんです。自分の未熟さ加減に呆れて悔やむことはあるけど、それは先輩と一緒にいることに対してじゃないし、こうして傍にいられることは幸せだなって思うだけで、それに後悔なんてするわけありません」
 一気に言い切って、ヒトミは肩で息をついた。
 どこか的外れに、怒っている彼女も綺麗だな、と頭のどこかで考えている自分に気がついて、綾人はわずかに目を眇める。
「そりゃ、先輩が苦しそうにしていたら気になるし、心配になるし、不安になるけど。それは、認めますけど」
 語を続ける少女の声が、怒りとは別のものに支配されて震える。その目に涙はなかったが、いつの間にか息遣いはしゃくりあげるのに近くなっていた。
「でも私は、先輩を信じてますから。泣いちゃうこともあるけど、明日も、明後日も、この先も――いつまでだって隣にいたいなって……思うから」
「……うん」
 綾人は、胸元に手を当てて話すヒトミを見つめた。
 やはり彼女は綺麗だ、と思う。眩しいほどの輝きを持っている。怒る姿も、泣いている場合も、もちろん明るく笑っている時も。二年ほど前に出逢った頃とは、外見は別人のようになったけれども、その内面は、まっすぐな心の勁さは変わらない。そしてそんな彼女だからこそ、いつしか惹かれたのではなかったか。
 いつだって当たり前の顔をして腕いっぱいの希望と幸福を携え、道筋を照らし出す明かりのような少女に。その確かな存在の温もりに。
「そう、だね。そうだったね」
 軽く頭を振って、綾人は苦い笑いを掠めさせた。
「変なことを言って、ごめん。……ちょっと目が覚めた」
 綾人はまだ震えているヒトミの頬に手を伸ばした。さらりと撫でて、そのまま髪を梳くように指を滑らせる。
「君の怒鳴り声は、やっぱり効くね」
 殊更に悪戯めかしてちらりと笑うと、ヒトミの頬に朱がのぼる。
「ど、怒鳴ってなんか、ないじゃないですか」
「そうかな……。僕には、どんな喝より響いたけど」
 されるままに髪をなぶらせているヒトミの頭を、そっと、しかし確実に、綾人は抱き寄せた。もう片腕を背中に回してしっかりと捕らえる。前屈みに胸に抱き込まれる恰好になったヒトミが、小さく息を洩らした。
「よかった、もう震えてないね。これに関しては僕が悪かったということで謝ってもいいのかな」
「って、別の意味で、震えちゃいそうですよ、これ……」
 胸に顔を押しつけたヒトミが上目遣いに綾人を見る。
「何だか、恥ずかしいです」
「震えちゃいそう、ってことは、今は平気なんでしょ?」
「そうやってひとの言葉尻を捉えないで下さいってば」
 口ほどには抵抗せずにおとなしく腕の中におさまるヒトミの、セミロングの髪を、くしゃりと指を絡めて綾人は撫でた。
「嫌じゃなかったら、しばらくこうさせてほしい」
 ゆっくりと、髪の根元から髪先まで辿りながら、背に回した腕に力を籠める。
「こうしていると、勇気がもらえる気がするんだ。君が確かにここにいる……って、より深く感じられる」
 綾人は俯くようにして、ヒトミの髪に顔を埋めた。やさしいシャンプーの香りがふんわり広がる。それは彼女の持つ気配と一体化して、包み込むような安心感を与えてくれる。
 流れる髪にキスして、綾人は囁き落とした。
「姿だけじゃ満足できない。声だけじゃ物足りない。こうしてじかに触れて、全て感じていたいと思う。君という――存在を」
 くすぐったげに微かに身じろいだだけでじっと寄り添うヒトミを強く抱き締めて、綾人は再び顔を寄せた。
「……ダメ? こう思うのは、僕一人のわがままかな」
「訊ねなくたって……答えは判ってるじゃないですか」
 半ば以上吐息に近くヒトミが呟く声が、胸元で聞こえる。綾人は緩く瞼を下ろした。
「直接、聞きたいんだよ。君の声で、君の言葉で。それが僕の道標になる。だから、聞かせて?」
「……私も、こうして、いたい……です」
「うん……ありがとう」
 瞳を閉じれば、腕の中の確かな存在の息遣いがより間近に感じ取れた。それさえも嬉しくて、綾人は少女の髪に幾度も口づけを落とす。
 この鼓動は、彼女に伝わるだろうか。いつ、かき消えるか判らない、頼りない生命の灯火の中であっても。ここにある想いは届くだろうか。
 近い将来、独りで遺していくことになるかもしれなくても――その日まで振り返らずに前だけを見つめて共に歩めるように。哀しみ以外の何かを、せめてわずかでも彼女に残せるように。
 自分が彼女からもらったたくさんのものの、たとえ何百分の一かだけだとしても。
「ね、ヒトミちゃん」
 少しだけ腕の力を緩めて、綾人は提案を口にした。
「今日は、無理になっちゃったけど……また今度、出かけよう。公園に限らずどこだって――君さえいれば本当はこの部屋だってかまわないんだけど、それじゃちょっと侘しい気がするから、とりあえず番外っていうことで。一緒に……どこかに行こう」
 綾人の腕の中でこくんと頷く気配がして、胸に強く頬が押し当てられる。
 唇でヒトミの髪をなぞり、静かに綾人は囁いた。
「約束、だよ」




 そこにある証をたしかめて。



 暖かな光の中で、共に。


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